地元や日常の知識

福島市信夫山の秘密地下工場のこと

福島市といったら信夫山。
昭和時代には展望台や周回車道が整備され人を集めるために力をいれていた時期もあり、2016年4月には信夫山ガイドセンターが開設され様々な魅力を発信されております。

そんな様々な魅力発信はよそにまかせ、ここでは地下工場に着眼点をあてて調べていきます。

この記事は絶賛調査中の未完成です。
長期になりそうなので調べたことや
現地訪問の記録を随時更新していきます。

信夫山の地下になにがある?

地下に眠る金鉱脈 金龍抗

信夫山は江戸時代から金鉱山として有名であり、天保14年(1843年)の古文書にもそれよりも前から金の採掘が行われていた記録が残っています。

明治初期には炭鉱王・五代友厚氏が、また、明治30〜40年には飯坂町の武田氏が探鉱するが成功にはいたりませんでした。

その後、昭和8年(1933年)から太平洋戦争頃の昭和18年(1943年)まで大日本鉱業株式会社が大規模な採掘を実施。上下数段の坑道を穿ち、高品位部が採掘、昭和16年の売鉱含金は1,708gに達していました。

各所にはそのための坑口が残っています。

ほかにも、たぬき堀りと呼ばれる”ひとがひとりやっと入れる程度の穴”を掘り進めて金脈をたどった跡も残っております。

信夫山を散策していると「これかな?」というような形跡が随所に見られ、その痕跡を伺うことができます。

昭和10年代には信夫山北側にズリ山(鉱石とともに掘り出された不要な石の山)も多く見られ、現在でも信夫山の北側山腹にはズリが斜面に残っており、いまでも名残を確認できます。

昭和18年(1943年)に採掘が終わりをむかえますが、後述する地下工場として昭和20年(1945年)に掘削中にも金鉱脈を肉眼で確認できたようで、まだまだ未採掘の金はあったとのことです。

信夫山ガイドセンター前からの眺め

その後、軍需工場へ

大戦末期には本土空襲が激しく、軍需工場の疎開が実施。
中島飛行機株式会社武蔵野製作所が工場の一部を疎開させ、この信夫山に地下工場を建設することとなりました。

昭和20年(1945年)3月15日に信夫山西部の金鉱坑口を利用して秘密地下工場である”福島フ工場”を建設するための起工式が執り行われ、工事着工となりました。

工事のために、多くの学徒動員や朝鮮人労働者が動員されました。福島中学校(現:県立福島高校)や福島商業学校(現:福島商業高校)、女子挺身隊、勤労報国隊、徴用工、特別挺身隊(朝鮮人労働者)などが動員されたとのことです。

この動員人数ははっきりしておらず、一説には特別挺身隊(朝鮮人労働者)が1,200人以上、全体で2,000人を超えるのではないかと言われています。

工場は総面積32,979㎡、月産300台を目標とした戦闘機エンジンの工場として計画されていました。

しかし、工場整備のための掘削開始が終戦の年ということもあり、エンジンは7機ほど作られましたがすぐに終戦を迎えることとなりました。
山根第一・第二工場と金龍工場が、掘削目標面積の1/3まで進みましたが完成には至らず、役目は短命に終わりました。

ちなみにエンジンは零式戦闘機装備「ほまれ二一型」とのことです。

また、坑内に残されていた工場としての機材類は戦後の駐在米軍により回収・撤去されたようです。

国土地理院より 1960年代の信夫山西部
山腹に入り込んだ工場跡らしきものが見えます

そして終戦後の信夫山へ

その後、工場入口や坑道入口は放置されたままだったようで、
新聞記事から確認できる事故として、昭和23年春、昭和31年3月、昭和35年5月、平成6年5月7日には廃掘内部へ入った児童の死傷事故が多く発生していることが報じられています。

昭和23年春に遠足中の小学生が縦抗から落下して転落死するという事故が発生しておりそれ以後コンクリートで閉ざされたとのことだが、昭和31年3月の記事は「魔の口開いて十数ヶ所」との見出しであり、多くの坑道が各所にあったようです。また、内部探索に松明を使用していたために付近で山火事が発生するなどしておりました。

また、昭和25年3月8日の福島民報には「横穴仙人立ち退き要求」の記事もあり浮浪者?が住み着くなど世情不安の影響も感じさせられます。

それから信夫山を憩いの場とするべく、県の整備事業として昭和31年まで整備が実施されており、その後も引き続き福島市が観光道路やハイキングのための整備を行い続け、人集めに尽力しておりました。
そういった事情もあり”探索したくなるような洞窟”は子供たちをひきつけ、なおさら事故を誘発する遠因になったのではないでしょうか。

そうして、昭和40年前後には桜の名所とするべく植樹が行われたり、国道13号線トンネルが開通するなどし、周辺環境も大きく変わっていきました。

平成3年(1991年)に福島東高等学校歴史部による内部調査が行われ内部状況が近年になり明るみになりました。
また、翌年の平成4年(1992年)には社会党県本部と朝鮮総連県本部による朝鮮人強制連行県真相調査団が工場内部の調査を行い、当時の地下足袋などの遺留品も発見されました。

↓1992年(平成4年)4月18日付新聞記事(記事内容は図書館などでご確認ください。)

福島民報

福島民友

事故の多発を受け、上記の調査などで開口することもありましたが、近年は廃掘入口を積石やコンクリートで塞いでいるため入れないようにされております。

現地を確認

信夫山ガイドセンター様のマップです。
こちらにも地下工場入口や金竜抗入口が記載されております。
まずはそこから攻めましょう。

その1 地下工場入口

極楽寺の西、脇道から山道に入って進みます。
しばらく進みます。
場所はこのあたりです。
しばらくすると山道脇にこんな坑道跡が(2020/06/12)
カメラを穴に突っ込んで撮影(2020/07/04)
画像右が上にするのが正しい向き

地下工場入口らしき跡。隙間からは冷たい風が吹き出しています。
奥になにか置かれたままになっていますがよく見えません。

その2 金竜抗入口

このあたりです(大雑把)
2020/06/12 (動画から切り抜き)

下の画像は↑より登った先の部分。どっちが金竜抗入口だ?

2020/06/12 (動画から切り抜き)
穴から内部を撮影(2020/07/04)
奥行きがある カンテラが落ちています

というかこちら持ち手部分が壊れた古びたシャベルと這いつくばれば入れそうな穴が……。絶対危険です。

その3 信夫山 北西部

地下工場入口北側に回ります。
ブロック塀で囲まれた一帯が。
昔は警察射撃場だったそうです。
塀の内側には何もありません
新しめな看板が設置されています。
射撃場裏側
埋もれてますが坑道入口があったそうです。
小動物の巣らしき穴
中を照らすと結構奥行きがありそう。
近くには倒壊した家屋があったりしました。

その4 金龍坑北口

金龍坑北口はこのあたり
登山道を赤い紐を頼りに進むとぽっかり空いた口が佇んでいます
内部は土砂で埋もれています。
奥まで続いてそうですが人が通れる大きさではないです。
小動物が巣にしているのか?

その他 気になるもの

たぬき掘りが行われていたり、様々な工場があったために石垣やなにか建物があったのかな?というようなさまざまな形跡が随所に存在しています。

思い過ごしなものもあるかもしれませんが気になるものを残しておきます。

2020/06/12

地下工場入口より烏ヶ崎展望デッキに向かう途中、道を外れたとこに存在する岩。画像では穴が奥まで続いているようにも見えますが土で埋もれています。こういうのもたぬき掘り跡なのでしょうか?

参考文献

・福島民友 1992年(平成4年)4月18日付
 記事「信夫山の軍需工場跡 確認」

・福島民報 1992年(平成4年)4月18日付
 記事「福島・信夫山 地下軍需工場を調査」

・ふくしまの歴史編纂委員会「福島の歴史 4 近・現代」
福島市教育委員会 2007年

・梅宮博〔ほか〕編集「図説 福島市の歴史 福島県の歴史シリーズ」
郷土出版社 1999年

・安斎 昭三/監修「森合郷土史」
森合歴史資料保存会 2009年

・福島県企画開発開発課「福島県鉱産誌」1965年

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みらんく
そのとき取り組んでいることを記事にして備忘録として作成。いろいろ手を出します。