福島市から国道13号線にて米沢へ向かうと途中に「大滝宿」へと向かう標識があります。以前から気になっていたのですがどういった場所なのでしょうか?
調べてみました。
明治天皇も訪れた万世大路の宿場
板谷街道の代替路、「万世大路」
もともと利用されていた別の街道として”板谷街道”が存在しており、こちらは明治初期までは福島↔米沢間の通路となっておりました。江戸時代には参勤交代にも利用されていたこともあり、山間部の宿場として李平宿や板谷宿などが発展していました。しかし、路も狭く険しく馬車の通行が困難であり、積雪期には交通が困難になるなど峠を超えるには多大な苦労があったとの事でした。
その代替路として明治10年(1877年)から道路の建設が始まり、それに合わせて工事の建設基地として発展、合わせて明治10〜12年頃(1877〜1879年)に山林の払い下げが行われ農民が移り住むようになり大滝宿としての集落が形成されたようです。
開通したのは明治14年(1881年)10月。明治天皇の巡幸をもって正式開通となったとのことです。大滝宿でご休憩なされたことでその家屋の前には記念碑が建てられています。万世大路の名称も明治天皇のご発案により命名されております。
その後、奥羽本線が明治32年(1957年)開通により、利用者数が激減しました。この頃には宿場としての役割は終えていたとのことです。万世大路も昭和8〜11年(1933〜1936年)には自動車も交通可能にするための改良工事が行われたようですが今の交通事情からは想像を絶するような屈曲や急勾配の連続であり、さらに昭和36〜41年(1961〜1966年)には大規模改良事業が行われ、「栗子ハイウェイ」と呼ばれた現在の国道13号ができあがりました。
さらに東北中央自動車道の登場により国道13号線の交通量も激減、大滝宿への道路標識すらも目にしない世代も増えてその名称や存在すら意識しない世代へ移り変わっていくのかと思います。
板谷街道→万世大路→国道13号線→東北中央自動車道へ。時代の移ろいを思わせます。
住人はいるのか?
昭和15年(1940年)頃には約270人が居住していたようです。それからは第二次大戦による出征動員であったり上記交通環境の変化により人口は徐々に減少していきます。冬季に閉じ込められる環境や高度経済成長期など都市部への青年層の流出が始まり、以後集落人口は急速に減少し、廃村の道を歩むことになります。
小中学校の分校も存在していたようですが、今は更地になっています。昭和42年(1967年)には廃校となりました。
現在は廃村となり、住民はいません。昭和51年(1976年)までは7世帯が居住していたようですが、昭和54年(1979年)には廃村となっております。
ですが、バブル期を境にしてテーマパーク化をめざしての発展を計画していたのか、いくつかの展示小屋のようなものや茶店、土産物屋が作られたようです。平成15年(2003年)頃までには茶店が営業していたという情報もあります。割と最近までは人の出入りがあったようです。
その何店かは今も建物が残っていますが見るからに痛みもひどく、これから荒廃していく気配を感じさせるものばかりでした。
大滝御休所について
明治天皇は明治14年7月30日に東京を出発した巡業にて、
同年10月にこの地で御休憩なされました。
当初、陛下が休憩場所は隣家の高野方を予定していましたが実際は渡辺要七方となりました。要七氏は御巡視の旨が伝わると「ぜひこの光栄に浴したい」と言い、家屋を修繕し、変更願いを出したのだという。
この要七氏は村内の才物で、御巡視の報を聞くと吉沢橋の架替えを県から請負い、難工事にもかかわらず容易に成し遂げて”木ノ葉天狗”と呼ばれたという話しもあったとのことです。
そうして甲斐もあり、迎えた御巡業では渡辺要七宅で休憩することとなりました。
休憩のために駕籠を降りて部屋に向かうときも騎兵に囲われた道を御通になり入室。休憩のときも周囲を全て騎兵が護衛していたとのことです。
天皇御休の室はその後、神殿と称して使用しないで常に清浄にして保存されていたそうです。
明治41年9月12日に屋敷前に「鳳駕駐蹕之蹟(ほうがちゅうひつのせき)」の記念碑を建てられました。(明治天皇は明治政府の政治的意向もあり六大巡業を含め幾度と地方都市を巡業なされたため、「鳳駕駐蹕之蹟」は日本中いたるところに存在しております。)
その後、昭和11年文部省第400合で史蹟に指定されてから大戦前までは国庫からの補助金が交付され、村で管理が行われていました。
しかし、大戦後はGHQの圧力もあり史蹟から外され(全国の鳳駕駐蹕之蹟も同様)、個人での管理となり、家屋も記念碑も「いかようにして構わない」とお達しを受けました。それでも由緒ある家屋であることもあり、家主の意向により家屋と記念碑は保存されて今日までその姿を残すこととなるのでした。
現地へ向かう
令和2年(2020年)3月某日撮影。ここからは画像中心で進めます。ここ数年で廃屋解体が結構行われたようで、探訪記録をネット検索してみると、今は無い家屋が写っていたりします。
ともかく行ってみましょう
国道13号線から
看板の先を…
右に曲がる!
すぐ脇には水汲場があります。水資源が豊富なようです。お地蔵さんが両脇に並べられていますが、どういった経緯でお地蔵様がここに集結しているのでしょうか。
夜間通行止めのため閉められている事があります。
管理が書かれていませんが、元は国道だったので河川国道事務所が管理しているのでしょうかね。
ゲートの先へ
開いているので入ってみます。
国道13号線ガード下をくぐります。大型車は通れなさそうな高さ。
道路も未舗装ではありますが、荒れているといったことはなく、程よく人の出入りが継続されている様子です。
葭沢橋〜
少し走るとすぐに「葭沢橋」が現れます。
画像の左側の川向、山間部には以前”大滝鉱山”があったとのことです。
純度は高かったけどすぐに枯渇してしまい短命の鉱山だったようです。
一つ前の画像の橋の先にある家屋です。以前は茶店か土産物でも売っていたのでしょうか?開けた間取りになっています入り口には↓の看板が。
衰退しつつある大滝宿を盛り上げる意気込みの中の一つの店舗だったんでしょうね。家屋もそうですが、文字はダイレクトに作り手の意思を感じさせてくれます。どことなく物哀しく感じさせられます。
また、現在はこの家屋の向かいは更地ですが、その昔はコーヒーショップがあったらしいです。
カラになったの酸素ボンベを使用した標識?なにか書かれていますが、かすれてしまって見えません。ここが分かれ道になっていて左に向かうと…
道が奥まで続いています。この先には赤岩道と大滝不動尊・不動滝につながる林道となります。行く先は木々が道にはみ出ているので車両で向かうことはできない様子でした。赤岩道はその名の通り奥羽本線赤岩駅へ通じる道として整備され、整備当時の昭和7年(1932年)からバスの運行が行われ始めた昭和30年(1955年)までは福島へ出る最短ルートでもあり、大滝不動尊への参道としても利用されておりました。不動尊までの道は今は維持管理はされていないようですが、不動尊そのものは有志により現在も維持管理されているとのことです。
右に見える小屋は↓
山の幸直売所だったらしいです。今は見る影もありません。
戻って、酸素ボンベの標識を右側に進みます。
大滝橋〜
大滝橋があります。下を流れる川の水量も多く、人が住んでいた頃の夏場などは涼し気な光景を見れたのではないでしょうか。
芝居小屋?見世物小屋?内部に侵入する人がいるようで入り口には物々しい文言を書かれた板が掲げられていました。
他の建物に比べるとこの建物だけ作りが違います。どういった内容だったのでしょうか?気になりますが閉じられている今としては中を伺い確認することもできません。
さらに少し先へ進むと立派な記念碑の案内が。この画像の左側の更地の場所に分校があったようです。
定期的に大滝を故郷の方々による総会等が行われているそうです。自分の故郷を大切にする気持ちでこの立派な記念碑として作られ、また定期的に訪問することで懐かしんでおられるのでしょう。
昭和54年に設置されたとのことですが非常に綺麗です。大切にされている気持ちが伝わりますね。
記念碑のそばには鳥居があり、
石灯篭もあります。
平成18年に新しいお宮として建立されたとのこと。
この後ろは駐車場として機能するのでしょうか?開けた空間があり…
ぽつんとなぜかシンクがあり、水が流れ出ています。湧き水でしょうか?
古びた受水槽のようなものが。朽ちかけぐあいが年月を感じさせます。
記念碑を通り過ぎると風通しが良すぎる状態になった家屋が。
住居ではないでしょうね。お団子でも焼きながら売ったのでしょうか?目の前にドンと囲炉裏のようなものが鎮座しております。二階部分もあるようです。気になりますが外から見える範囲だけにしておきます。
前の画像の左の小窓を裏から見た画像です。奥に座敷だったであろう部屋もあります。どういった使われ方をしたのでしょうね。
前の建物のそばにぽつんとドアがやたら新し目に見える小屋があります。
鍵はしまってない様子。一応ノックをして中をちょっと見させてもらいます…
右側が白飛びしてますが、窓がなく外が丸見えです。休憩スペースとかだったのでしょうかね。
胡桃橋〜
さらに先に進みます。「胡桃橋」昭和11年施工ですが見た感じはそこまでふるさを感じさせません。木々の手入れがされれば川辺の周辺環境も良さそうですけどね。
さらに進むと自重に耐えきれずに押し潰されたであろう家屋が!
この周辺には最近土を掘り返したような跡がありました。ふきのとう狙いのイノシシかもしれません。
割とりっぱな面影を残した家屋があります。
内部は荒れ放題です。この家にも人が出入りして、この家で育った人もいるでしょう。どのような思いでこの地を去ったのでしょうか。いろいろ考えてしまいます。
崩壊した納屋らしきもの。
こちらが明治天皇の休憩なされた場所とのこと。そういった由緒があるからでしょうか、こちらの家屋だけは入り口を塞いだりと他と違って建物を残そうとしている様子を感じられました。
更に先に進むと国道13号線と向かいには東北中央自動車道がみえます。今は見る影がありせんが、現国道13号線開通前はこの道を自動車やバスが通行して米沢から行き来していたのです。今の交通環境がどれだけ恵まれたものかを感じさせられます。
YouTubeの動画版はこちらへ
もとは動画で撮影しておりましたのでYouTubeにアップしてみました。
最後に
人口流出による限界集落、そうでなくとも高齢化出生率の減少などの影響もあり維持管理を削減した社会作りが将来は必要になっていくと思います。
そういった時代の流れのはざまで生まれる大滝宿のような廃村には心が惹かれてしまうものを感じます。明治初頭に必要性が叫ばれ、福島と米沢双方の協力のもとで繋げられた万世大路。しかし、奥羽本線開通や国道13号線の開通などの急激な世相の流れによりあっという間に取り残され、衰退してしまった峠の宿場。
これからも大小様々な廃村、廃集落が生まれていくのでしょうか。そこで生まれ育った人も三者三様の考えで離れていくことでしょう。「都会のほうが便利だ」「離れたくないけど維持できない」「足腰が弱って買い出しが不便」などなど。
今回はあいも変わらず車で行ける範囲内の探索でしたが、不動尊への林道、廃道などにもそこに生きていた人たちの形跡は点在しています。それが積み重なりわたし達の今の生活にどのように変化していったのかを考えるのも面白いと思いました。
これからもいろいろなものに興味を持ってみたら調査を進めていきたいと思います。
参考になる関連サイト
わが大滝の記録
https://ootaki.xsrv.jp/
dark的道部屋
http://michibeya.moo.jp/road/touge_html/R13_bansei_menu.html
山形河川国道事務所
http://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/road/highway/exhibition/page01.html
参考文献
建設省東北地方建設局 福島工事事務所
「福島県直轄国道改修史 昭和6年〜昭和37年」
昭和40年3月発行 復刻版平成15年3月
万世大路の記事
その1 工事着工までのいろいろ
その2 万世大路完成後のいろいろ
その3 現地の様子①
その4 現地の様子②
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