地元や日常の知識

米沢藩の義人 高梨利右衛門

山形県の高畠町にある日本三大文殊に数えられる亀岡文殊。
そこに祀られる碑があるのですが、
赤文字で塗られた「極重悪人」との文字が。
一体どういうことなのでしょう。調べてみました。

のちのち現地の画像も再訪問で追加予定

高梨利右衛門とは何者なのか?

米沢市史によると

1666年寛文6年の欄に(p.104)
「幕領・信夫代官所に、「米沢十五万石総百姓」の名で米沢藩の重税等を訴えた目安が出される。信夫目安あるいは寛文目安と呼ばれる。」

1699年元禄元年の欄に(p.112)
「高梨利右衛門が寛文6年に寛文目安を幕府に提出したことで処刑され、その目安によって屋代郷が元禄2年に米沢藩預地から幕府領に変わったという高梨利右衛門義民伝説も生まれ、幕末の屋代郷騒動では、この義民伝説が、幕府領復帰運動の理念ともなった。」とある。

幕末の屋代郷騒動とは1863年文久3年の”屋代郷文久一揆”と言われる騒動の事のようで、約200年後にも高梨利右衛門の意思は受け継がれていたという壮大なお話しになるのでした。

しかしこれでは
なぜ処刑に至ったのか
なぜ極重悪人と呼ばれるに至ったのか
まだ全容がわかりません。

もっと詳しく調べてみましょう。

これ以降のお話は「東洋民権百家伝」に準じます。
文献により細部に違いがありますのでご注意ください。

このときの時勢

1664年寛文4年に米沢藩3代藩主である上杉綱勝27歳で急死。

当時は跡継ぎはあらかじめ指定して幕府に届け出を出さねばらならず、
指定なく当主が亡くなり世継ぎがいない状態になればお家断絶になってしまう。

お家断絶の危機に瀕した上杉家だが、
綱勝の妻の夫であった保科正之の仲介もあり、

綱勝の妹が嫁いでいた吉良義央の長男である
吉良三郎を末期養子とすることで存続を許された。
(三郎は幼名。幾度かの改名を経て上杉綱憲となる。)

しかしこの騒動により米沢30万石は15万石へ削封となった。
それにより家臣の知行・扶持は半減され、
伊達郡・信夫郡の小知・小扶持の家臣は召し放ちとなった。

伊達郡と信夫郡の12万石に加え置賜郡(屋代郷)3万石が没収となるのだが
屋代郷については米沢藩預地となり、米沢藩と預地の境界には番所が設置されるのでした。

出自について

高梨利右衛門は羽前国置賜郡屋代郷二宿村の人物であった。
家は代々農業であり、豪富ではないが由緒のある家であり、
代々、里の長に選ばれることもあり村人にもその存在を重んぜられていた。

利右衛門の代になって節倹に務め、専農に励み家計も豊かになっていた。
田畑も祖父の代から買い増しており、郷内では指折りの豪家となっていくのでした。

それにより村人からも信頼され30歳余の時には村では名主となった。
利右衛門は性質郷邁にして敢為活発の風であった。

このとき妻と子供をひとりもうけていた。

そんな中、先ほどの上杉家お家断絶騒動の末に
屋代郷は米沢藩預地となるのでした。

過酷な重税取り立て

上杉家は存続となったが減封により困窮する米沢藩。
預地の年貢の一部は管理する藩が手数料の名目で藩の手元に残ることになる。

それ故に過酷な重税取り立てが行われることなっていきました。

小人汚吏(器量が小さな汚職役人)が任用されており、
米沢藩よりも預地の人民の方が裕福であるという状況。

これはよい獲物がきたとばかりに不当な課税を行い、
権威にて百姓を罵り虐げる事に執念し、
重い年貢の取り立ても、まったく百姓への慈悲は無し。
貧しく年貢の延納を願い申し出る者にも一顧することなく
ただひたすらに権威をひけらかし過酷にこれを責め立てる。

百姓もしだいに、年貢の上納遅滞しようものなら
どんなに辛い目に遭うものかと
恐れて農具を売り払い、牛や馬を年貢に充てるなど
目も当てられない様相になっていった。

それ以前の屋代郷は御料所の代官も人の心を持つ方ばかりで
政治も寛大なものであった。

このような状況がいきなり過酷圧政の政治の元に治められることとなり
困惑しどうすればいいのかと頭を悩ませていた。

古来より卑屈従順な百姓であったためにこのような無理非道にあっても
大々的に抵抗をする気力はなく、
ただ集まっては眉を顰めて顔を合わせ愚痴苦情を述べ溢すのみだった。

悪政は日々ひどくなり年貢も年々増加されていく
この世の時勢は武家の存在が大きく、百姓は軽んぜられる存在であった。
そこへ訴え出ても権威をもって押さえつけられるのは
結果を見ずとも明らかである。
そこへ強く抗議したところで牢獄され責め殺される恐れもある。

一命を捨てて訴え出ても、
ほかの住人の救いになることもなく
ただ、無駄死にするだけ。

高梨利右衛門の旅立ち

そこで高梨利右衛門、役人に向けて抗議することはせず、
泉岡村の友人佐藤十郎左衛門と協力。
上杉家の政治のひとつひとつを漏らさずに書き溜めておき、
ひとつの布令が出るたびに事細かに記して親類縁者にも知られぬように
寛文4年から6年までの3年間に百ヶ条を超えて記録されていった。
それらはこっそりと鋏箱にしまいこんで見られないようにしていた。

記録も十分となったころ、その中から過酷な内容の約60ヶ条を選び、
目安嘆願書にしたためた。

ある一夜、屋代郷の重立った人々を集め、この嘆願書を開示。
この現況を代官所へ訴え出る事を旨をみなに説明した。
佐藤十郎左衛門を先にして御一同の連判をなしえ、
皆の奮発の様子をみて利右衛門は大いに喜んだ。

明日には出発するが、役人どもの耳に入り途中で捕まっては
いままでの苦労が泡と消えるだけではなく、
さらなる災いとなって返ってくる恐れもあった。
そのためこのことは成就するまで他言無用と誓い合った。

いきなり江戸将軍へというと突拍子のないことである。
まずは信夫郡の代官所に訴え出て取り上げて吟味してもらえるなら
その裁許を待つのみのところである。
が、このことはそれだけでは済まず、領主に敵対した罪に合うことは
間違いなく重い罪を背負うは自明である。

利右衛門の妻は最近の夫の素振りに不審があり、
ついに先の集会というときにこっそりと襖越しに話を聞いていた。
いずれ共に老いてゆき、子供や孫の成長をそばで一緒に
見ていくであろうと思っていた伴侶は明日の朝には旅立つ。
しかもそれが戻ることのない死出の門出であると聞き、
ひどく驚き悲しんだ。

利右衛門も妻との別れが今生の別れかと思い、
互いに悲しみを抑えながらも朝早くに出発。
鋏箱に嘆願書を大事にしまい、
ひたすら道を急ぎ、ほどなく信夫郡についた。

信夫郡の代官所にて嘆願書を代官宛に差し出した。
頃は寛文6年8月であった。

代官所から江戸へ

代官所へ提出した嘆願書を怪しみながらも精査を行う。
これは上杉家の悪政かと、深く百姓の困苦を察したが、
なにより相手は国主大名である。

代官役にはこれを糾弾する職権もなく、これを公儀へ差し出す責任もない。
変に手を出して面倒に合うのも御免蒙りたい。
そんな様子を見て感じ取る利右衛門。
取り上げてくれる気色もない様子を伺いながらも
利右衛門は望みを失う体ではなかった。

意を決して提出した嘆願書だが、これの下戻しを願い出た利右衛門。
嘆願書を持て余していた代官所はこれ幸いとばかりに容易く下げ戻した。

このとき利右衛門は、このような事態は想定していたようで、
かくなる上は、直々に将軍の裁許を受けるべく心に決めて
江戸へ向かうのであった。

8月の下旬には江戸城下に到着。
旅宿に泊まり準備を進める。

そしてある日、老中の帰邸を門外にて待ち受けて急訴哀願を行うも
老中はこれを全く見ることなくそのまま、何事もなかったように
駕籠を早めて邸宅内に入ってしまった。

さすがの利右衛門もどうしたものかと思うも空しく日は過ぎて
9月の半ばを迎えるのであった。

利右衛門の策略と覚悟

そんなある日、大工にほどよい桐箱を綺麗に作らせ、
その桐箱に金の蒔絵で将軍家の葵の御紋を描かせる。

その箱に嘆願書と自分の止宿所を記した書き付けを入れて堅く封をして
もともと嘆願書をしまっていた鋏箱に入れて持ち出した。
上野近辺の茶屋にて、しばらく休息をとった後に頃合いをみて
この鋏箱を置いたまま店を後にした。

その店では日中は忙しく気がつかなかったが夜の片付けの時に
この鋏箱が置いてあることに気がついた。

何が入っているのかと鋏箱を開けてみれば立派な桐の箱に
将軍様の葵の御紋。

店の者はこれに驚き、将軍様に関わる大切な品物かもしれないと
明日の夜明けを待っていてはなにかお咎めがあるかもしれない、
急ぎ訴え出るべしと町役人とも申し談じて町奉行に届けでた。

町奉行では不審に思いながら蓋を開けて中を改めると
巻物となっていた嘆願書が入っており、
これにて上杉家の悪政が知れわたることとなった。

これは容易ではない一大事として早速利右衛門を呼び出し糾問を行った。
また、吟味中は入牢を申しつけられることとなる。

斯くして、このことは公儀沙汰となり老中の評定のうえでも
上杉家の曲事は明るみに出ることとなる。
利右衛門の嘆願は至極当然のものとの評決され
屋代郷は元のように御料所として代官の支配所と定まることになった。

しかし、利右衛門は領主を相手取り、公儀を驚かし奉りし事への罪科は
逃れることができず、上杉家へ引き渡されて相当の御處刑申付けられるべしと町奉行においてその旨を利右衛門へ通達された。

それを聞いた利右衛門はかしこまり平伏し、
「農民の身をもって国守大名を相手取り、恐れ多くも将軍家を驚かし奉りし罪科は慎重にして、如何なる重き御仕置を蒙り候うとも、毛頭御恨みは申上げまじく、かつ嘆願之義御聞届け下しおかれ、屋代郷3万石の人民子々孫々まで立ち行くように相成り候上は、一命相果候義は覚悟の事にて今更驚き候はず、宜しく御計らいをお願い上げ奉る」
と、少しも恐るる様子はなく、健気に申し上げた。

その様子を見ていた武士も利右衛門のその心意気に涙を流したものもいるという。

そして処刑へ

上杉家の役人はこの嘆願により公儀の取り調べを受け、
不法の政治ひとつひとつに呵責を受け、改正を申し上げられ
屋代郷3万石の預地は召し上げられるに至った。

上杉家としては土百姓の分際で領主役人に恥辱を蒙らせた事もってのほかであるとして大いに憎み怒りを買うこととなった。

上杉家へ引き渡され、江戸より奥州街道を経て出羽國二井宿村まで護送されて同所の字一の坂に至ったところで「成敗に行わるべしぞ」と通達される。
道中にて非道の扱いを受け艱難辛苦の限りに合ったことは書くまでもない。

処刑の日が定まり、その話を聞いた屋代郷の者立ちは皆嘆き悲しんだ。
そして処刑当日、せめて最期の際には一遍の回向を唱え、死後の冥福を営まんものをと打ちつれて、四方より処刑場に群れ集まる者数を知らず、多くの人が詰めかけて人山を築いた。

ほどなくして役人に引き立てられて刑場へ入り来たる利右衛門の姿は、
江戸の牢獄につながれて辛苦に堪えた後に上杉家に引き渡され長い旅路の間の艱難もあり、頭の髪は乱れ髭は葎に生えなして、頬肉は痩せてこの世の人とは思われず、見るもあさましき有様であった。
ここに集まる老若はこの様子を見て哀れを催した。

磔柱に縄でひしひしと縛り付け真っ直ぐに押し立たてられ、錆槍を手に取った処刑人は左右に分かれて構えて見物一同があなやと気をもみ手に汗を握っていたりしたその時、その見物人の群衆をかき分けて矢来の最前まで進み出てくる者がいた。

泉岡村の佐藤十郎左衛門であった。
利右衛門の方を見やり、声をかけようとしたところ、利右衛門は磔柱の上にありながらこれを見留め、にこりと笑って会釈をした。
これを見た十郎左衛門は胸を潰れる思いで悲嘆の涙にくれそうになったが、
今こそ言葉をかけねばならんとして涙をふるって大声を上げて

「いかに利右衛門殿数年辛苦の甲斐ありて大願成就に至りし上は、今日死すとも本望ならん」

と声をかければ利右衛門はうなずき

「さすがは泉岡村の名主どの。最期の際によくこそ言葉をかけられたれ。子々孫々さらにかわることあるべからず」
…と言葉の終わらぬうちに左右から突き出された槍先により突き貫かれ、
はかなく息絶えた。

その後

かくして利右衛門の処刑はおわった。
そしていよいよ屋代郷は御料所に復し翌年の元禄2年に高畠の代官の支配となり同4年に検知の上で上杉領との境界に番所を設け支配内の住民を保護撫育し、上杉家の厳しい政治から解き放たれ住民にも安堵の様相を呈した。

しかし、これは利右衛門の死で買い得たものであると深くこの功徳を賞賛し家毎にこの霊牌を設けて密かに冥福を祈っていた。

密かにというのは一旦國法にて磔刑にされた以上、公然と墓碑を建てて祠堂を設けることは恐れ憚るところがあったためである。

その後20年を過ぎた頃に享保元年(1716年)7月長手村の豪富白石氏により自費でもって縦5尺台座合わせ8尺の石仏を二井宿(一の坂処刑場)、泉岡、亀岡、馬頭、長手、川井の六ヶ村に建立し名付けて六地蔵という。

一の坂刑場には墓、亀岡文殊堂に「南無阿弥陀仏」「極重悪人」の供養塔、没後140年にあたる文政10年(1827年)、武田孫兵衛(武田鳥海山人)の揮毫による「大酬恩碑」が二井宿に建てられた。
なお,初代の「大酬恩碑」は文久3年(1863年)の幕末に屋代郷を米沢領とすることに村民が反対し仙台藩に助力を求めた屋代郷文久騒動の際に江戸からの幕吏齋藤辰吉の手により墓碑と酬恩碑を破却されてしまっている。
なおこの齋藤辰吉は明治維新後は中野梧一と改名し山口県令の任命を受けている。

その後明治3年(1872年)に再建酬恩碑が再建。
高梨利右衛門のためのものでもあるが、
幕末の屋代郷文久一揆への顕彰の思いが大いに託されているようである。

明治20年(1887年)には二井宿村東泉院においてい200年忌が執り行われ、
昭和になり「利右衛門を祭る歌」が作られた。
昭和25年には酬恩碑を二井宿小学校に移転し、盛大な供養が行われた。

酬恩碑 尋常じゃない大きさです

改めて考える。なぜ「極重悪人」なのか。
それは屋代郷の農民からすれば義民(英雄)なのであるが、
幕府や米沢藩からすると御上に逆らった「極重悪人」であった。
そんな義民に奮発され爆発した屋代郷文久一揆。
屋代郷文久一揆を盛大に称える記念碑を作ってしまっては
明治政府に目をつけられて取り壊される恐れもある。
それを避け、なんとしてでも高梨利右衛門とその志を受け継いだ幕末の屋代郷一揆への記憶と意思を後世へ残す、そのためにも役人を欺くべく考えられた当時の人々の知恵として、刻み込まれた偽りの文言「極重悪人」。その偽りの言葉とともに高梨利右衛門は今も義民として人々には称えられ、言い伝えられ続けるのである。

最期に

さて、「東洋民権百家伝」に基づいた高梨利右衛門を追ってみましたが、最初に書いたように、文献により細部が違うところがあるようです。
どういったところが違うのでしょうか。

まず名前は偽名を名乗ったという記載もあります。
例えば「米沢市史」では
「二井宿村の島津利右衛門、最上生まれの高梨吉右衛門と偽り」
とあり、これを信じると高梨利右衛門の名は偽名と本名が混ざったかっこうになってしまいます。

さらに「米沢市史」では上に続けて
「幕府へ屋代郷の金山採掘を願い出るが素性が暴露する。」
とある。ここまで述べた話と違う内容です。

しかし、さらに続けて
「なお、島津利右衛門に関しては新宿村の鉱山一件について米沢藩の金山経営の実情を暴露したため処刑されたとも伝えられる(高畠町史中巻)」
とある。(新宿村とは二井宿村のこと)

このあたりは「…とも伝えられる」という曖昧な表現を使っているように、米沢藩の記録にもはっきりしないところがあるようだ。

また、葵の御紋の桐箱を作ったという直訴方法も上野国の義民・磔茂左衛門の伝承と似通っている。

この当時は数々の圧政に対して訴え出るものも多数いたようで、それらを利右衛門にまとめあげ、ひとりの偉大なる義民を作り上げたのではないかという考察をしている文献もある。

偽も信じれば真実になる。
文献が残っていても歴史という分野そのものがどれが真実でどれが錯誤なのかはわからない部分が存在するように、利右衛門の物語がどこまで真実なのかは今となってはわからないかもしれない。

しかし、幕末には屋代郷一揆では利右衛門伝承が原動力になった。

一揆と書くと遙か昔の無縁のもののようであるが、今でも各所で大小様々な住民運動や抗議活動などにより訴え出ている人たちは決して少なくない。そんな大きな物事でなくとも、身を挺して訴え出るその勇気は高梨利右衛門の伝承を信じて見てみる事で学べるところは少なくないと考えております。

参考文献

「東洋民権百家伝」小室信介編 林基校訂 岩波書店

「民衆史としての東北」真壁仁・野添憲治編 日本放送出版協会刊

「高畠町史中巻」高畠町史編集委員会

「米沢市史 大年表・索引」米沢市編纂委員会

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みらんく
そのとき取り組んでいることを記事にして備忘録として作成。いろいろ手を出します。