そして大島要三氏へ
郡山が望み薄で福島にするにしてもどうすればいいのか。
伊藤が日記風に重要な事や大事なことを書き記している手帳を
ふと開いてみると明治28(1895)年5月に朝鮮へ渡った時の帰りに
大島要三氏が船まで見送りに来てくれたことが書いてある。
それを見て京城(日本統治時代の朝鮮の呼び名)の宿で大島要三氏と出会い、同じ福島県と関わる人間として意気投合したことを思い出した。
お互い多忙の身であり会う機会もなく時が過ぎていたが、
「ここ一番何かあったときは力になりましょう」
と互いに交わしたのが最後の挨拶。しかし20年も前の事である。
それでも福島市の千葉馬之助を仲介して
大島要三との会合をすべく依頼した。
しかし伊藤弥は政友会、大島要三は憲政会に属しており
この二つの会派は乱闘騒ぎが発生するほどの犬猿の仲であった。
「競馬に政友会も憲政会もないだろう。とにかく頭を下げて頼んでみる。」「先生が頭をですか。」
すでに先生と呼ばれる立場の伊藤弥氏であるが福島競馬にかける思いは並々な覚悟ではなかったようである。
伊藤弥の熱意と大島要三の承諾
「さて、何か話があるということだがどんなことかね。」
齢五十八歳の要三氏だが一挙手一投足に隆盛の覇気が満ちていた。
「実は、福島に公認競馬場を作っていただきたいと思って、それには貴方の統率力と力が絶対に必要と考え、お願いに上がった。」
「明治17年に上野に競馬場を作ったとき、わしも下請けでやったことはあるが、正直、競馬なんてものがよくわからんのだ。事業で面白い事なら他にいくらでもあるだろう。」
伊藤はニコニコしながら言った。
「大島さん、おれは馬が好きなんですよ。私のいる本宮はもともと馬産の中心地でもありましてね。福島と馬は至る所で深い関わりをもっているのはご存じかと思うが…」
と、続けて、日清日露戦争・北清事変で日本が苦しんだ軍馬の能力不足、都路産芦毛の馬が田村郡都路村産だとされること、明治天皇御料馬「夕鶴号」も田村郡常葉桧山産の名馬であったこと。さらには神話のヤマトタケルの東北攻めと坂上田村麻呂の東北進出が名馬欲しさがためのものであったこと、源頼朝が実弟義経を殺して東北進出を図った背景にも馬があったなどなど…。
そんな少年のように馬を語る伊藤を見て大島は、
はじめはぽかんとしながらも、しまいにはじっと聞き入っていた。
「今の開成山をツギハギして作るより県庁所在のこの福島に新しく充実したそれを作る。それでこそ意義も価値もある。どのみち苦労するなら目標は大きい方を選ぶことだ。大島さん、これは大変な仕事だ。政財界が一体となって、しかも地元の意思統一しながらでなければならない。それができるのは、貴方の力と徳を下敷きにして始めて可能なことだと、そう決めて今日、このお願いに上がった。どうかお願いする。頼みます。」
伊藤は座布団から降り、座り直すと両手を畳につこうとした。
「おいおい、そんな君」
大島は慌てて伊藤の手を引き上げた。
20年前に京城で、豪毅に構え純粋ともがむしゃらとも思えるこの強引さが、付き合える奴と読んだ魅力の芯でもあった。
この怖いものなし、我が道を行くといった典型のような男がこうして頭を下げている。
「わかった。わしは馬の事は素人でよくわからないが、君がそれまで言うならそれなりのことがあるのだろう。いま、福島商業会議所をつくるので、いろんな連中がまとまっているところだし、話しを持ち出してみよう。」
伊藤はさらに深々と頭を下げた。
そして伊藤は政敵となる自分は表に出ないこと、郡山の関係もあるので今回の話しを自分から大島へ持って行ったことが表面化しないようにすること、自分側の人間も全面的に大島の元で動かすこと。さらには専門家として産馬組合長たちの紹介も約束した。
「彼らも、貴方が乗り出してくれると知ったらどんなに喜ぶか。
どうか存分に、よろしくお願いします。」
大島は大きく頷いた。
動き始める大島要三
多忙を極める大島氏ではあるが、誘致元である藤枝競馬そのものが潰れてしまってはどうしようもなくなる。
こうして大島要三の精力的な働きが始まった。
産馬組合長の千葉馬之助と副組合長の肥田金一郎を呼んで競馬についての基礎となる知識を取り入れ、藤枝競馬倶楽部の情報も念入りな推敲を繰り返す。
もつれたことを肝で押し、成功させる腹芸に長けるといわれた大島だが、大胆さは細心の配慮無しに生まれない姿勢であることを知っていたのだ。
経営実績、馬政局からの通牒、馬一頭だけのレースを注意されたこと等々、さすがの大島も苦笑して
「伊藤もひどいものに惚れ込んだものだ。」
肥田もつられて笑いながら
「それでも欠損は大正4(1915)年秋の96円20銭があるだけで、100円から300円くらいの利益は出していますよ。」
「まあ、焼け石に水だね。なんにせよ、地元に利するという名分で押していくほかない。それと、馬に対する福島人の特別な心情と物心の両面で合意を盛り上げていくことだ。」
さらに大島は千葉へ言った。
「君は二宮君(当時の福島市長)をよく知っているね。さっそく会って、この藤枝のことを持ち出せ。くどいくらい言うんだ。市長は必ず議員の主なところでその話しを持ち出すから、それをきっかけにする。」
熱心な一市井の者から出されてきた要望、
それを受け取って小さな波紋から大きなうねりへ盛り上げていく、
政治も事業も成功の軌は同じ。
これは大島の信条でもあった。
こうして二宮市長へ向かう千葉。
千葉の人となりを知っている二宮氏は、いつになく強い口調で説き立て繰り返すその熱心さに面食らい戸惑っていた。もちろん、大島への根回しがあることを言ってはならない。一市井の要望として通さなければならないからだ。
「とにかく、市長、このことについてのあんたの意思表示が欲しい」
二宮としても、改まった形でないにしても別方面から希望や願望のような言葉としての”福島にも競馬場を”の話しは少なからず耳にしてはいた。愛馬会のメンバーもそのようなことを口にしていたこと知っていたのだ。
しかし、このような膝詰め談判は始めてだったのに加えて、いい加減な返事ではこの千葉は帰りそうもない。懇意にしているだけに適当な返事で濁して帰すわけにもいかない。
「2,3日考えさせてくれ、きっと返事はするから。」
千葉は大島へ連絡を取りそのまま本宮へ、肥田も藤枝の情報を得ては本宮へ持ち寄って伊藤へ伝えていた。
「いろいろなことを聞かれるだろう。藤枝に限らず他も経営に四苦八苦している実情を避けて通れない。『それでも』とするには先行きの展望へ説得の焦点を持って行く。われわれの気持ちを一般の人たちに押しつけるのは無理だ。いまは苦しくとも、将来必ず福島市繁栄の敷石的な役割を果たす事業になるという点を力説しよう。」
…その3へ続く
人物紹介
肥田金一郎
明治7(1874)年7月、東京生まれ。
学習院中等科を修了後、父昭作が獲得した採掘権により福島県安達郡高川村にて高玉鉱山の経営に関わる。大正4年には高川村長、郡会議員議長を務めたが政党色はなかったという。事業家として資質がすぐれており、父の影響で少年期から馬を好み、新式農法を取り入れた牧場経営・産馬・馬事振興に終生を費やしたといえる。
あまたの優れた業績を残しており、安達産馬組合副組合長として伊藤弥組合長を緻密に補佐。伊藤弥の最良のパートナー。
千葉馬之助
明治3(1870)年生まれ。
18歳で独学で獣医検定試験に合格しているが、その頃福島県内の獣医は彼ひとりだった。
福島県獣医蹄鉄工組合聯合会を作り、会長、信達産馬組合長を歴任。
昭和に入ってからは福島市会議委員も務めた。
外柔内剛、極めて温厚な技術者タイプだった。
服部宗右衛門
明治9(1876)年1月福島県伊達郡飯野村生まれ。
馬小屋で馬と一緒に育ったと言われるくらいに馬への博識ぶりは自他共に認められ、「校長先生」の愛称で後輩からも慕われていた。
大地主であり、代々酒造業を営んでおり、酒の銘柄も「新駒」。
自営の牧場で朝夕の乗馬を欠かさず、家の門も馬に乗ったままで出入りできるように高くしていた。
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