地元や日常の知識

福島市にJRA福島競馬場がある理由 その1 「伊藤弥氏」

福島市には東北唯一のJRAである福島競馬場があります。
生まれ育った町に生まれる前から存在していたJRAですが、
東北の政令指定都市の仙台ではなく、なぜ福島に来たのでしょうか?
調べてみました。

画像の追加・続編含めて作成中です。

福島競馬場の生みの親・大島要三氏

福島競馬場の誕生には大島要三氏を避けて語ることはできません。

大島要三氏
安政3(1856)年埼玉県大桑町(現在の加須市)生まれ。
明治14(1881)年25歳の頃に東京へ出て国鉄の前身である日本鉄道の敷設工事をしていた杉井組の下請けから事業を興し白河〜福島間の工事が始まると支配人としての力を発揮。

奥羽本線の敷設では難工事と言われた板谷隧道を完成させたことにより
その業界に「大島あり」とその名声が高まった。

明治38(1905)年には本籍を福島町(現在の福島市)に移し、
本格的な経済活動を福島で行うようになる。

信達軌道株式会社、福島電燈株式会社などの社長を歴任し、福島商工会議所の発起人代表や二代目会頭に就任したり、福島競馬場の誘致の大きな役割を担うなど経済活動に大きく貢献しました。

福島市制施行最初の市議会議員に当選したり
その後に衆議院議員選挙に2回当選するなどの活躍をみせました。
現在では信夫山公園に銅像が建てられ、その功績を称えております。

今回は福島競馬場と大島要三氏に焦点を絞ってのお話になりますが、
大島要三氏だけで本が一冊できあがる活躍が数多く存在しております。
(まだ「その1」では登場しません)

もう一人の重要人物・伊藤弥氏

伊藤弥は慶応3(1867)年3月に
福島県安達郡本宮の旧家の素封家(財産家)に生まれた。

25歳で本宮町議会議員に当選してからは
郡会議員、県議会議員、郡会委員長、そして本宮町長として
地方自治に尽力を尽くした人物。

明治33(1900)年には伊藤博文により結成された政友会に参画。
福島県における同党の重鎮としても隠然とした実力で、
常に指導的立場にあった。

地元のために奮闘しある時、阿武隈川洪水の名所といわれた本宮へ
当時政友会幹部であった原敬を招いて築堤の重要を説いていた。
その後、大正7(1918)年9月末に誕生した原敬内閣とともに工事が着工されることとなるなど多大な貢献を残している。
しかし、その時、伊藤弥は故人となっており原敬は黄泉の盟友へ信義でこたえたのである。

そのように、伊藤氏に関するエピソードも政治経済共に数多く存在しているわけだが、そんな忙しい中での楽しみが「馬」であった。

競馬のはじまり

慶応2(1866)年に横浜在留外国人によって根岸競馬場が設けられ、
明治21(1888)年に馬券販売が行われていた。

それを一般的に洋式競馬と言われ、
その方式を取り入れたのが明治20(1887)年春から
開催されていた信夫山招魂社祭礼競馬であった。

祭礼の奉納競馬であり、県立福島高等女学校(現・橘高等学校)の裏に1周800mの馬場を設け、福島県産馬組合取締所により主催されていた。

春秋二季開催で発足当初は珍しさもあってかなりの好成績で賑わった頃もあったが段々とジリ貧の状態となり明治37(1904)年には現郡山市の開成山競馬として移転され福島県産馬畜産連合会が開催させている。

明治27(1894)年の日清戦争、明治37(1904)年には日露戦争と続く中、日露戦争終結の明治38(1905)年8月には国民の関心が戦争志向から転換した受け皿として開成山競馬に人が集まるようになり盛況になっていた。

明治の頃の競馬を取り巻く情勢

明治初期の日本馬は欧米に比べると体格の小さい在来馬であり、近代軍隊における軍馬としての資質を欠いていた。とくに日清・日露戦争の実戦によりその点を痛感し、優れた軍馬を大量に確保することは大陸への軍事進出に向けての急務となったのである。

そんな馬匹改良の昂まりにより本来賭博行為は違法となる馬券も国策に適うものとされ、明治38(1905)年に桂太郎内閣は馬券黙許の方針を通達。

しかし、そのためには「公益法人で1マイル以上の馬場とその他必要な設備を備え、毎年新馬を出場させること」という公認を受けるための基準があり、開成山競馬場はその基準を満たしていなかった。

東京・池上競馬場の第一回開催が成功に終わったことを受けて、札幌、函館、川崎、板橋、松戸、藤枝、越佐、京都、鳴尾、小倉、宮崎など、相次いで公認競馬場が設立された。

ところが入場料と馬券を高額に設定し、紳士淑女の集まる場所にするつもりだったのだが、ある競馬場は営利主義になるなどして「配当金の計算がおかしい」、「八百長だ!」などの騒ぎが連日発生、さらにはやくざものが入り込むなどして柄の悪い場所になってしまった。

そんな騒動を受けて政府は世論から競馬排斥論をうけることとなった。

そもそも馬券黙許についても法的根拠はなく、明治41(1908)年9月に馬券禁止派であった当時の司法大臣は神戸地検検事に命じて鳴尾競馬の馬券販売主任者を賭博容疑で検挙させた。それに慌て驚いた競馬関係者は政府にもう一度馬券黙許の確認を取ったのだが、それも結局は法的根拠が無いことに変わらないわけであり、その後に同年10月には正式に閣令としての馬券発行禁止が発せされた。

東京競馬開催からわずか2年の出来事であった。

福島競馬場への導火線

「馬券はダメでも、競馬をダメにしてはいかん」
そういうのは酒席についていた伊藤弥。
「競わせて結果を見て、さらに競わせて改良していく。原点を廃れさせては元も子もなくなる。」ことあるごとにその考えを披露していた。

馬券禁止により競馬存続が危ぶまれているが、公認競馬倶楽部(競馬場)に対して整理統合を条件に政府は補助金を出しているのであった。

整理して11ヵ所に絞られた公認競馬であるがそれでも持て余している政府の現状から新規公認など及びもつかない状態であった。

この時の11ヵ所は以下の通り。
横浜・東京・阪神・京都・小倉・新潟・松戸・函館・札幌・藤枝・宮崎。

そんなおり、福島競馬場誕生の導火線となる情報が舞い込んだ。
大正5(1916)年、肥田金一郎なる人物が伊藤弥を訪ねてきてこう言った。
「藤枝競馬倶楽部の経営が苦しくなってこのままではつぶれるしかないというんですよ。それで、その権利というか開催権の移譲が可能ならどうかとふと思ったのですが。」

つまり新規公認ではなく既存の倶楽部の移譲で福島競馬を誘致しようというのである。

静岡県の藤岡競馬倶楽部は発足から半年ほどで馬券禁止の発令に合い、馬産地でもないため経営も運営もままならない状態だった。大正3(1914)年秋には次のように警告がなされている。

馬発二三三七号
抽籖新馬に関する件 大正三年十月二十五日

藤枝競馬倶楽部 会頭 岡崎平四郎殿

其倶楽部抽籖馬は従来不同優劣の差甚しく就中本秋季新馬中には競争用馬の資格に乏しきもの三、四頭も混じるは斯業奨励の主旨に副はず斯くては将来補助金額にも影響すべきにつき自今一層注意を加へられ度依命及通牒候也

藤枝はこのままでは廃止か公認取り消しか、という状況であった。

それから伊藤弥は原敬を通じて「権利譲渡し」についての意向を馬政局に打診し、藤枝倶楽部を買収や譲渡ではなく”移転する”という体裁なら申請受理されるだろうという感触を得ていた。

そうなると移転にしてもどこに持ってくるのがよいか。
このとき存在している開成山競馬を拡幅・設備充実させることでのスタートがいちばん手っ取り早い。

とはいえ概算でも5万円が必要となるが郡山の方々へ相談を持ちかけて協力を求めたがことごとく断られた。

過去には盛況を極めた開成山競馬であるが、馬券禁止に世論も傾いており、博打がらみの低俗な道楽という観念が浸透していたため、反応は総じてよくなかった。

「郡山はだめですね。どうしたもんだか。」
「うん、お金のことも大切だが、地元が公認競馬誘致を評価してくれることが一番重要だ。全部が賛成とはいかないのが世の常だが、そうした反対意見も包んで持っていくスケールとなると、政財合わせて先頭に立っている者達の腰がすわらにゃだめだからな」

そう話す肥田と伊藤のそばで信達産馬組合長の千葉馬之助がぽつりと、
「それなら福島(市)に新しくですかね。」

大正2(1913)年には馬関係の見識者が30人ほど集まって地元貴族院議員を総裁にして福島愛馬会が結成されていた。春秋2回の親睦会のようなものだったが福島市にも開成山を上回る競馬場があってもいいんじゃないかという話しは出ていたのだ。

「それをしきりに考えているが、いまあるところへではなく、まったく新しい競馬場をとなると、それは大変な金が要るんだ。」
「と言って、郡山が見込みないならどうする。あきらめるか。」

そんな肥田と千葉のやりとりに伊藤が怒鳴った。

「あきらめない!」

…その2へ続く

福島市にJRA福島競馬場がある理由 記事一覧

その1 「伊藤弥氏」

その2 「伊藤弥氏と大島要三氏」

その3 「市長と市議会の説得」

その4 「藤枝との交渉、そして政府へ」

その5 「土地買収と建設」

その6 「建設完了・初開幕へ」

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みらんく
そのとき取り組んでいることを記事にして備忘録として作成。いろいろ手を出します。