現在は東北中央自動車道が開通している福島米沢間。
今もある現国道13号線、その前に使用されてきた万世大路。
時代の移り変わりで廃道となった万世大路を今回は見ていきます。
記事を書いているうちに長くなったので分割します。
現在までの米沢〜福島の基幹路
平成29年11月4日に開通した東北中央自動車道の福島大笹生IC〜米沢北IC区間。以前は国道13号線だけであり、豪雨災害や凍結によるスリップ事故等で交通障害が発生したりすると大きな迂回をしなければならないというリスクが存在していました。(猪苗代方・会津面から米沢へ、もしくは桑折町か白石市を抜けて七ヶ宿を経由して米沢へ)
過去の道路から世代を重ねて使用された第5世代の東北中央自動車道。
(世代のカウントは資料によってブレがあります)
そんな過去の米沢福島間の世代は下の通りです。
第4世代の栗子ハイウェイも長いトンネル内の整備のために片側交互通行で数分〜十数分ほど待たされることがあります。
現在は第5世代の東北自動車道もあるのでどちらかを回避路とすることで整備による渋滞対策とすることが可能となっています。
さて、今回はこの第3世代として使用されていた万世大路について見ていきます。
が、まずはそれに至るまでの歴史を確認していきましょう。
明神峠から板谷街道へ 〜江戸時代〜
関ヶ原の戦いで上杉景勝が西軍の石田三成に付いて敗北後、
上杉家存続は許されたが出羽米沢に減移封されたために
直江兼続から譲り受けた米沢城。
直江兼続は実際には執政のために若松城に詰めている事が多く、
上杉景勝が入城した頃は小さな城下町にすぎませんでした。
そんな状況から時が経ち、武家諸法度の改定により参勤交代が制度化されたこともあり、福島・米沢間にも宿場の設置が必要になりました。
それに伴い米沢街道の整備が行われ多くの宿場が作られました。
大沢宿、板谷宿、李平宿、庭坂宿、笹木野宿が整備され、
そこから奥州街道の八丁目宿(現福島市松川町)へ繋がり、
米沢街道(板谷街道ルート)となるのでした。
そんな米沢街道ですが、板谷峠ではすれ違いすら困難な難所が多かったために他の藩は羽州街道か笹谷街道を使用していました。
そのため、奥州街道へ抜ける最短経路であった米沢藩だけが使用する専用ルートといえる状況になっていました。
それ以前に使用されていた明神峠は標高も高く険しく、
宿場の設置も難しい環境であったことにより使用されなくなり、
番所は設置されていたが藩の目が届かないところでの
物資運搬や警備上の問題を防ぐためにも
明神峠は米沢藩により通行禁止となったために
廃れていくこととなるのでした。
しかし、通行禁止のまま明治時代を迎えたのちに、
このルートの存在を福島側で知ることになるので、
秘密裏に使用されていたのではないかと思われるています。
また、米沢藩として幕末のころに
新たな街道を新設するための調査・計画を進めていたのだが
計画実現には至らずに新政権の明治政府樹立にともない
そのままお流れとなるのでした。
しかし、のちの三島県令は刈谷街道の新道開設にあたりその計画の内容のことも知っていたようでおそらく使える部分は使用したりしたのではないかと思われます。
山形県を取り巻く政治情勢 〜明治初期〜
欧米列強に対する国力を求めた時勢もあり、対露政策としても大久保利通を中心とした明治新政府は東北開発の開発を進める必要がありました。
江戸〜明治初期の陸路は人馬が主であったため、当然ながら存在していなかった車両通行を前提とした陸路ではありません。物資の運輸も陸路ではなく海路・河川船運のほうが効率がよかったため、河川改修とそこへつながる陸路の組み合わせで主要港である野蒜築港(現・宮城県東松島市)へ繋げる一大物流ルートが構想されていました。
他にもエネルギー資源として炭鉱・鉱山資源や食料資源を搬出するためにも海路に留まらず、陸路の開発も進められることとなりました。
明治に時代が移り変わったとはいえ、
東京などの都市部ならいざしらず、
情報の伝達の遅い東北は江戸の頃と変わらぬ生活環境でありました。
明治天皇による巡業に先立ち
東北視察を行った大久保利通の上申書等によると、
「進歩をしようとする気概が乏しい(意訳)」
「北の遠いところに位置するため諸般見聞に疎い(意訳)」
といった手厳しい表現・評価がされております。
東北の人間からすると大概な言われようだと思うかもしれませんが、
明治7年頃でも明治政府の意向を無視して
旧藩時代と変わらぬ税や労役を課しているなど(ワッパ騒動)、
発展への気概はたしかに少なかったのであろうと思われます。
それでも
「山や河川の路面を開墾することで富強の可能性はこの地にはある(意訳)」と将来性を期待されてもいました。未開拓の田舎ということですね。
明治政府は日本各地の殖産振興計画の立案に際して
明治天皇の六大巡業が計画されました。
この巡業の大きな目的として
1.清やロシアの脅威に対処すべく軍事的拠点を強化
2.開発の遅れた東北に、産業の奨励、殖産興業、地方資産の活用を図る
3.地方行政を把握し、地方有力者との連携の強化により士族の反乱を牽制し、明治政府の支持基盤を強化する
……といった意味がありました。
そんな思惑の明治天皇による東北行幸は明治9年の6・7月に実施されました。
そんな富国強兵を推し進める明治政府ですが、
先に述べた通りに東北の物資運搬の中継点は
太平洋側の野蒜築港を中心に考えられておりました。
日本海側の山形にとっては不利な状況です。
北前船で栄えた酒田港はありますが日本海側ということもあり経済的につながっていた都市は京都や大阪でした。
(鹿児島、西郷隆盛にも縁があり上野の西郷隆盛像の資金捻出は大半を酒田市民が捻出したとか。)
江戸の頃に整備された羽州街道などもありますが、
山形内陸部は周囲を山に囲まれており運搬は大変困難です。
米沢も周囲を山に囲まれており物資の運搬は
羽州街道から桑折町を経て阿武隈川へ。
または
最上川を下って酒田港へ。
といった具合で河川や港までは馬荷での運搬に頼っていました。
しかし馬荷も積雪期は使用できないため人足での運搬となってしまい大変な環境であったとのことです。
明治4年の廃藩置県を経てからの
明治7年に酒田県令として赴任した
三島通庸(みしまみちつね)。
その後、
明治8年に酒田県が鶴岡県に改められ
一旦鶴岡県令となり、
さらに翌年の明治9年、
鶴岡県・置賜県・山形県が府県大廃合により
現在の山形県のかたち(統一山形県)になるに伴って
そのまま初代山形県令へ赴任することとなりました。
その頃は県令に一貫した長期政策を実行させる政府の方針もあり、
三島県令は山形地方の状況を細かく分析し
輸送施設の不便を改善すべく
道路整備の必要性を大久保利通への上申書である
「山形県政の長期県治方針」の一部として
記載され提出されるのでした。
三島通庸は薩摩藩出身であり
大久保利通とも密に通じていると思われ、
東北地方を明治政府の中央集権とした国家体制へ組み込む
大きな役割を担うのでした。
それでもあまりにも膨大な計画であったため
大久保からは苦言を呈されたようだが、
それを三島は説き伏せ、計画実現へ突き進むのでした。
そういった軍事・政治・経済の様々な思惑もありつつも
東京や仙台を繋げるための道路整備計画の一部として、
のちに万世大路となる山形側の区間「刈谷新道」が
整備されることとなります。
そんな明治政府の意向を組んだ整備事業とはいえ、
明治9〜15年までの山形県の道路・橋梁・堤防の建設費用は
県の全歳入の2倍に達する総額84万円※となった。
そのうち官費は22.2%、県費は4.4%にしか至らず、
残りの73.4%は県税として徴収されて費用捻出されることとなりました。
あまりの巨額の土木工事と課税のため、
いつしか三島は「土木県令」とも呼ばれるようになりました。
※当時の貨幣価値については、江戸時代との貨幣切替や藩独自の貨幣などが入り乱れた後の統一貨幣のため算出方法がいろいろあり、日本銀行の「明治以降卸売物価指数統計」も明治20年からの記録になるため判然としない。レファレンス事例詳細やman@bowに記載のある給与換算レートの「明治1円=現代2万円」で換算すると現代で約168億円となる。
福島側からの街道計画 中野新道
万世大路の整備といえば三島通庸と言えるぐらいの重要人物ですが、最初に福島米沢間の街道を作るべく進言したのは福島側からなのでした。
不便な米沢街道による米沢福島間の往来を解消したく思っていた飯坂村の3区区長が、旧米沢藩が通行禁止としたまま秘境路となっていた明神峠の存在を知り、明治7年にその峠を元にした山道開削を福島県に陳情していました。
新道開設をすべく県の調査に先じて上飯坂の石渡丈七氏と斎藤孫左衛門、中野村の木村善吉らの3人が4度の実地調査で福島県中野村から明神峠を経て置賜県東山村赤浜を結ぶ「新道切開願書」を作成し上飯坂村の第三区会所へ提出。
そこから県庁に取り次がれた。
その後、明治8年に会所詰戸長の大谷知至が先の3人とともに5度目の現地調査を実施、調査報告が県令へ提出された。
この調査報告に加えて同年には伊藤博文から福島・置賜両県に電報送信のための電信線の架設について諸事便宜を計るようにお達しが出ていたこと、置賜県から福島県側へ道路新設への照会が行われるなど、米沢から福島区間の開発の重要性が高まる中、福島県では土木係員林田蕃善を派遣し道路開通と電線敷設のための現地踏査を行うこととなった。
その後、明治9年8月には統一山形県令として三島通庸が就任し、同年11月には山形・福島両県の協議が整い「刈谷新道開削に関する山形、福島両県の結約書」が締結され、同年12月には両県から新道開設の書類が政府へ上申され新道建設が開始されました。
しかし、明神峠ルートは電信線の敷設には利用されたが、万世大路として開通したルートでは明神峠を通過しておらず、この計画段階から着工までの間に計画路線変更が行われている。
また、初期段階では福島町から上飯坂村を経て中野村堰場へ至るルートを想定してたが、実際の工事着工直後の明治10年には距離を短縮するために福島町から笹谷、大笹生、川子坂を経てから中野村堰場へ向かうルートへ変更されるなどいくつかの計画変更が行われているようである。
費用負担も米沢側とは違い、国庫負担11%、県費71%、民費17%と、大半を県が負担という内容であった。
ちなみに、その後明治16年頃には北沢又村成出を分岐して上飯坂村へ向かうルート(現在の飯坂線沿い)も敷設されている。これは東北本線開通ののちに飯坂温泉が観光の名所となった時に活躍するのでした。
当時の福島県令には米沢藩出身である山吉盛典が赴任しており、故郷米沢への街道新設には前向きだったのだろうと思われる。
ちなみに山形県令だった三島通庸は明治15年には福島県令に赴任。そこでも県会議員の反対を押し切って、会津から山形・栃木・新潟へ通じる会津三方道路の建設を行っている。土木県令の名は伊達ではありません。
参考文献
「米沢の歴史夜話」 2005年刊 小野 榮著
「万世大路を歩く(増強改正版)」 阿部公一 (株)ネクスコエンジニアリング東北 2016年5月29日
「万世大路ガイドブック 歴史の道土木遺産を訪ねる」歴木道土木遺産万世大路保存会 平成27年9月
「万世大路 東・西栗子トンネル竣工記念」建設省東北地方建設局 福島工事辞書 昭和41年5月29日
万世大路の記事
その1 工事着工までのいろいろ ←いまここ
その2 万世大路完成後のいろいろ
その3 現地の様子①
その4 現地の様子②