地元や日常の知識

福島市にJRA福島競馬場がある理由 その5 「土地買収と建設」

福島競馬場移転を受けて

福島県知事川崎卓吉は新聞記者に次の談話を発表している。
「競馬場が開設されるのは喜ばしい。必ず大きく発展するものと思う。最初のうち馬政局は東北地方に公認競馬を設置するとすれば仙台にしたいと希望していた。宮城県も以前から運動していたが、それは新設運動であり、実現には難しい問題があった。ところが福島の場合は藤枝を移すという運動であり、移転なら問題はないとして早期に決着をみたものである。まさに福島の運動は機敏。適切であった。これは県民の幸福と言わねばならぬ。」

また、福島民友新聞の社説でも
「仙台では明治37(1904)年から継続的に運動したが、ついに実現をみなかった。秋田、岩手も仙台と競争するように運動した。そんな中で福島は1年有半の運動の結果、藤枝競馬場の移転という形式で公認競馬の設置を実現したのは喜ばしい。もともと東北地方は馬産地であり、陸軍の軍馬はほとんどが東北産となっており、東北の産馬は軍備にも影響あり。いずれにしても福島に公認競馬が実現したことは福島県のみならず、東北民の幸福と言うべきである。」

仙台、それに続き岩手や秋田も競馬場を作るべく活動してたが、新設としての構想だったため成功への道は険しく難しいものであったのだ。

しかし、伊藤弥の諦めない心と、藤枝移転の発案をした肥田金一郎。その案を大いに支持し実行した大島要三。そしてそれを支えた多くの人たち。
これらがうまく絡み合い、粘り強い活動により福島への競馬場建設へと相成った。

後世では大島要三氏が競馬場の生みの親として称えられている。それは間違いのない事実であり、競馬以外にも現在へ繋がる福島へもたらした大島氏の恩恵は絶大である。しかし、物語を調べれば調べるほど伊藤弥氏の情熱も同等に賞賛されて欲しいと願う。少なくとも福島競馬という括りに於いてはその名をより大きく紡いでも良いのではと思う。

ともかく、まだ福島競馬場はできあがっていない。
まだお話しは続きます。

福島競馬場建設へ・土地と資金の確保

まずは移転が成立したので藤枝競馬倶楽部への支払い残金1万4500円の支払いをしなければならない。
大島は第百七銀行頭取の内池三十郎に用立て願った。
「契約証の署名人7人でこれは作らなければならい。(7人の)連帯(保証人)で君の所から出してくれないか。」
「それはいいが、あとの建設、設備にかかる金なんかどうする考えだ。」
「それは市長と議会の返事、それと君たちとも煮詰めなければならん。」

福島競馬場が具体化し動き出したはいいが、
この後の方針への危惧はあった。

こうして7人の連帯にて第百七銀行から借りた1万4500円が
大正7(1918)年1月28日に岡崎の代理人杉本唯吉へ支払われた。
無事、移譲の証書は履行された。

だが、競馬場設計企画書で算出された金額は総額10万5千円である。
実際の建設となると計画の洗い直しでかなりの不足が出ることは明らかであった。それに加えて土地買収費用も概算で12万5千円が必要だというのが関係者での話し合いで出た額面であった。

大島達には市民総ぐるみの姿勢から誕生した競馬場であらねばならないという意図があった。そのためにも有志はもとより一般からの資金募集をと考えていた。

しかも、なんとしても今年の6月には初開催へとこぎつかねばならなかったのだ。
これほどの大騒ぎをして移転をしたのだ、こんなところでもたつくようでは批判は免れない。

そもそもどこに競馬場を作るかという段階からの話しである。
腰浜、杉妻、笹木野の三カ所の候補地があった。

まず笹木野へということで交渉を始めるが、先祖代々の田畑を手放すことに抵抗があったようで、地権者30人の理解は得られなかった。改めて信夫山その周辺などの地域調査から進めるうちに徐々に腰浜へと候補が絞られてきた。

しかし地権者へ直接交渉は笹木野で失敗という経験がある。

それで五十辺(いがらべ)選出の市会議員尾形市助と周辺地主の東条熊次郎を市役所に呼び、市長と大島らと相談が行われた。

「競馬場を五十辺に決めたいと思うのだが、土地買収が容易ではないと思う。それで貴君から土地所有者に対し『郡部の笹木野に競馬場を持って行かずとも市内のこの五十辺に設けるようにして欲しい』との陳情を起こす運動をやってくれないか。」

”競馬場を押し付けられた”のではなく”自ら迎え入れた”という格好に民意を煽ろうというのである。尾形議員によって行われたこの策略はうまくいった。

「競馬場はぜひ五十辺へ。市の発展を図るように考慮してもらいたい。」

市内30人、市外2人の地主からの陳情書が提出され、
それを受けてすぐに買収交渉を始めた。

大島他16名との連帯で第百七銀行と他福島市内の銀行5行から10万円を借り入れ、土地買収と馬場造成、厩舎、スタンド等の工事が着工された。

すでに3月下旬であった。

競馬場建設・福島土地株式会社

福島競馬場造成のために設立された福島土地株式会社。
設立時の社長は内池三十郎。
(先に話しますがここで紹介する福島土地株式会社は昭和3年に解散しております。現在、同名の会社が存在するので念のため。)

物語の時間の流れはまだ福島競馬場完成前なのですが、
ここでは福島土地株式会社解散までを取り上げます。

創立は大正7(1918)年8月8日であり形式上は第一回競馬開催の後になるのであるが藤枝移転の認可が降りた直後から計画されており、資本金12万5千円、一株50円の2,500株募集を目標に株主集めがすぐに開始されていた。
その資金を元にして馬場建設を行おうというのである。

当初は競馬倶楽部のトンネル会社(親会社の脱税や融資目的の為に設立される実態の乏しい子会社)ではないかと思われるなど、なかなか一般の参画もままならなかった。

その打開策が「市民総ぐるみを看板にしているのならこの際、利益配当5分は市が保障する」というもの。
株式のようで市債のような、むちゃくちゃな策ではあるが、ともかくこれにより329人の株主を集め、予定の2,500株の募集は終えることができた。ちなみに単元株は無く、1株から購入可能だったため1株のみという者も106人いた。

この資金にて福島土地株式会社が競馬場を作り、このうちの土地と設備の一部を福島競馬倶楽部へ福島市協賛名義で寄付することとした。
しかし、その一部以外の部分では福島競馬倶楽部へ貸し出すという形式にしようとしたところ馬政局としては競馬倶楽部が営利会社と密接な関係を持つことは好ましくないとし、直接の賃貸関係も難色を示した。

寄付については問題ないが、馬場使用料による会社と競馬倶楽部のつながりがいけないという。というのも、以前の馬券禁止の理由の一つに公益事業を隠れ蓑とした儲け仕事の続出があり、これを警戒した当局の方針でもあった。

そこでこの会社の所有する馬場をいったん福島市が借りて、これをさらに福島競馬倶楽部に転貸するという方法を採ることとなった。市が間に入ることで、「不正はありません、させません」という表明になったのかと思われる。

さらに、資本金では足りなかったために、コース内の土地を福島市として購入しており6万円の支出が出されている。

大正8(1919)年の第一期事業報告では1株1円の配当、翌年第二期事業報告では1株2円の配当だが、市による利子補給についてはさすがにおかしいという声が出始めた。馬場の賃料は当初は年500円。市の利子補給がなければ株主配当など到底望めない状況であった。なにせ馬券も売れないために、政府補助金があっても馬場使用料も滞る事態さえ、時にはある状態であった。

大正10(1921)年の第三期事業報告では無配当を明言し、将来の見込みがない無配当株を持っていてもしょうが無いとばかりに株を手放す者も出てきた。一時は1/10の値段にまでなったといわれる。服部宗右衛門は設立当時4株のみだったがもてあまされた株を「まあそう言うな」といって引き受けていくうちに解散の頃には157株の筆頭大株主になっていたという。(設立当初の筆頭株主の持ち株は大島、吉野、鈴木の3人が80株であった。)

その後、ようやく第七期決算で1株1円25銭を配当。
借地料も大正12(1923)年に1,250円、大正13(1924)年に2,500円に増額されている。
それでも福島競馬倶楽部の経営は苦しく東京競馬倶楽部に1万円、福島商業銀行へ6,400円の借金があった。

その後、福島土地会社所有の土地と設備が、福島競馬倶楽部へ買い取られることとなるのであるが、そのきっかけは大正15(1926)年の暮れに福島市から競馬倶楽部への競馬場貸地料増額の申し出があった頃合いのようである。土地取得費5万6千円と馬場建設代金となる福島土地株式会社の出資金12万5千円に対する利率年8分5厘に該当する1万5385円を馬場使用料として払えという要求であった。

競馬貸地料増額請求の件

 貴倶楽部において使用せられつつある馬場敷地は本市の所有に係る練習馬場五千百十坪および福島土地株式会社の所有に係る本馬場一万二千二百五十八坪は同会社より当市において借受け、貴倶楽部に転貸のこととなり、これに対する使用料として本年度において金四千七百三十四四十銭を支払い相なりおり候えども、貴倶楽部創立の当初爾来市および福島土地株式会社においては既にご承知のこととは存ぜられ候えども多大な犠牲を払いおり候次第なるも、産馬改良の助成機関たる国家的施設事業の貴倶楽部発展のために、今日に至る迄殆ど使用料に対し増額欲求をなしたることなかりしといえども、ご承知の通り当市においては上下水道および架橋工事等のため多額の市債を起こし、先年貴倶楽部事業助成のため練習馬場を購入したる等の旧債と合算、大正十五年十二月現在の負債六十三万円以上にこれあり。これに加えて昭和二年度においては各種の税制整理せられたる結果当市の収入約五万余円の現象となり、市の財政は今や一大危始に瀕しつつあり。また福島土地株式会社においては貴倶楽部創立の当初に当たり建設物および敷地の一部を貴倶楽部に寄付したる関係もあり、同会社としては従来殆どの使用料を受けざるため欠損続きの状態にあたるをもって、貴倶楽部より当市に支払わるる僅少なる使用料にては投資者に対し少しの配当をも行わざるようの状態なるをもって、株式においては馬場の貸付を希望せず該土地を売却せんとする者すらこれあり、従来の如き使用料にてはこのまま貴倶楽部において使用することは当市としてもいささか気の毒の感にたえざるものあるにより、貴倶楽部最近の発展に乗じ使用料増額の請求をなすが如く思わるることは遺憾にこれあり候えども前述の如く当市財政の窮乏ならびに右土地会社の既住の厚意ならびに出資者に対しこの際左記により土地使用料増額相なりたく、同会社より嘆願と当市会議員多数の意見によりこの段申しまいらせ候也。
        記
 福島市所有に係る練習馬場土地購入代金五万六千円に対する一ヵ年八分五厘の利率に該当する金四千七百六十円および福島土地会社の出資金十二万五千円に対する一ヵ年八分五厘の利率に該当する金一万六百二十五円計金一万五千三百八十五円を馬場使用料として支払われたし。
 出資金に対する八分五厘の利率を要求したるは当市債の利率および土地会社の出資者に対し八分5厘の利率を支払わるることは妥当なるものとして要求す。

それを受け、福島競馬倶楽部としては、これに応じるのは容易ではないため、福島土地株式会社から福島競馬倶楽部へ土地の所有権を移すべく理事会での決議がとりおこなわれ、購買計画が立案された。

馬場敷地購買計画立案

福島土地株式会社の所有に係る土地(現在の馬場)三町八反三畝二十四歩を左の計画をもって購入せんとす。
一、福島土地株式会社は社団法人福島競馬倶楽部に貸付しある現在の本馬場および付属土地一切を金十二万五千円にて売り渡すこと。
一、社団法人福島競馬倶楽部は右土地購入代金として左の通りこれを支払うこと。買入契約済の上初年には金二万五千円を支払い土地売買の登記を行うこと。
次年より十ヵ年以内に金十万円を年賦償還をもって償却すること。ただし償却未済金に対しては年五分の利子を支払うこと。
右の契約を以て購入するときは左の通り元利金および諸費用を要す。
 土地代金十二万五千円也、利子金二万七千五百円、登録税金五千三百三十七円五十銭、不動産取得税、県税金一千八百三十円、市税金一千百三十円、代書人費用見積金二百円、計金十六万一千六百九十七円五十銭。

その後、昭和2(1927)年12月19日に福島市所有地と福島土地所有地を買収し、さらに一等スタンドと審判台等の新設のために20万円の借入金を申請し、昭和3(1928)年1月7日に農林大臣の認可を受けた。それによりこの年に福島競馬倶楽部の土地の取得の完了を受け、福島土地株式会社は解散した。

こうして福島競馬倶楽部を(物理的に)作り上げた福島土地株式会社は幕を閉じた。そこへは多くの人たちの支援があってこそ成り得たものであった。解散時、「最初、この株式に応募してくれた有志の人たちの一部に払込金額を償還できなかったのは心残り、大変迷惑をかけた」と社長である大原一は話している。(大原病院の礎を築いた県医師会長、市議会議員などの功績を残した)

しかし、この解散当時は世界恐慌が吹き荒れており、第百七銀行も閉店の憂き目に合っている。そういった世相の中での精算であることを考えると後腐れの無い幕引きだったと思える。

…その6へ続く

福島市にJRA福島競馬場がある理由 記事一覧

その1 「伊藤弥氏」

その2 「伊藤弥氏と大島要三氏」

その3 「市長と市議会の説得」

その4 「藤枝との交渉、そして政府へ」

その5 「土地買収と建設」

その6 「建設完了・初開幕へ」

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みらんく
そのとき取り組んでいることを記事にして備忘録として作成。いろいろ手を出します。