地元や日常の知識

福島市にJRA福島競馬場がある理由 その6 「建設完了・初開幕へ」

建設着工・完成へ

土地が確保できたので工事となるのだが、6月開催まで3ヶ月。
福島土地株式会社により市内の土木、建築、各業者を総動員しての突貫工事となった。

大正7年3月20日工事着工。

工事については大島の力が大いに発揮される舞台である。
とはいえ3ヶ月という短期間にスタンドと本馬場、練習馬場、厩舎まではなんとしても仕上げなければいけないという強行軍である。

馬場測量については専門の東京測量社へ依頼。急ぎの中でも専門性が高い所は万全を期してその道の専門業者へ依頼するあたりはその蓄積された経験故の判断だったのだろう。

工事期間中は朝はまだ夜が明けきらない時間に家を出て、夕方は暗くなり手元が見えなくなるまで、寝食を忘れるほどの陣頭指揮を行っていた。

大島氏は24歳の頃から「人間は4時間寝ればいい」と言っていたそうで、目を覚ますとそのまま床の中に居るということはなく、布団を蹴り上げてすぐに起き上がる。老後に至るまで朝遅くまで寝ていることなどしなかったらしい。若い時から仕事一途に熱中してきた長年の習慣となっているようである。

そんな怒濤の工事により福島競馬場は同年6月24日にどうにかその体裁を整え、6月開催へ間に合うことができた。
前日には福島競馬倶楽部臨時総会により大島要三は理事となっている。

翌日25日には報道関係者を呼んでの競馬場初公開を行った。
後日には地元新聞記事で福島競馬が紹介されている。
福島民友は建物外観の概要的な紹介に終始していたが、
福島民報では「発会式を祝す」という内容で一面扱いで祝っている。

初開催 第一回福島競馬

大正7年6月28日 開催当日。
雲一つない晴天。
新装の競馬場は太陽の光を受けまぶしく、くっきりとその姿を見せていた。
ファンの出足も上場で、すでに前日には泊まりがけの人が汽車が来る度に多くの人を降ろしている様相であった。

待ち焦がれた第一回福島競馬の開催である。
前夜より各地から入りくる観覧者、市内の老若男女、市外近隣の人々。
それに名だたる名士も祝いの会場へ続々と押し寄せてくる。
まだ早い時間、午前6時半にもかかわらず沿道には人波をつくりあげた。

鉄道は臨時列車を出すもそれでも足らず、連結車両を増やすもそれでも足らず、天井のない貨車にテントを張って簡易に客車としてもなお来る多くの列車。福島駅から5銭均一で満員の客車は第三小学校前に特設された臨時停留所より降り、その人々は続々と会場に吸い込まれていく。それは正午の頃まで途切れることなかった。

競馬はイギリス育ちの紳士のお遊びという触れ込みであったため、大正時代の草創間もない福島競馬場では、正式入場者は羽織を着用する決まりであった。正門前にはカーキ色の制服を着た守衛がいて「羽織を召さない人は入場相成らず」と客をつかまえては入場を断っていた。

競馬場の門外にはお祭り会場の如く見世物小屋や各種出店が並び、それは福島稲荷神社の例祭を上回る勢いであり、たいへんな大賑わいであった。

午前8時にはすでに1等入場者が数十名、2等入場者も5〜60名があり、どちらも場所選びに大騒ぎの様相である。馬見所特等席も紳士淑女で賑わい、規制の緩い私設観覧場は紅白幕もはためいたりしながら同じく人だらけの大賑わいであった。

午前10時に乗初式がとりおこなわれた。
先頭に真っ赤なフロックコートにシルクハットの肥田金一郎、続けて小池順馬政官、大島要三理事が開き馬車で馬場を一周する。

一周し終えて正面でとまると
一斉にスタンドから拍手と万歳の唱和が発生した。

そして行われる記念すべき第一レース。
「第一レース抽選新馬戦」が午前11時30分にスタートを切る。
距離1,200m、出頭は以下5頭。

シュンヨウ(馬主大島要三)
ミツカゼ(馬主鈴木周三郎)
ヤシマ(馬主両角幸助)
シノブ(馬主鈴木雅楽)
ミニスター(馬主西山小兵衛)

発馬点に並び、黄色の信号旗が振られると一斉にスタート。
まずシノブが先頭、続いてミツカゼ、ミニスターの順。
3コーナーでミツカゼが先頭に立つも4コーナーでシノブが再び先頭に立ちそのまま一気に後続を突き放し、2着に20馬身の差をつけた圧勝のゴールへ。1分28秒1/4。賞金一八五円を獲得した。

記念すべき第1レースの優勝馬はシノブとなった。その後続馬のミツカゼ、ミニスターがゴール板を過ぎていくのだが、「アラアラ、大島さんの馬、ビリだ」との声にどっと来賓席に笑い声が。

二日目には福島競馬の特別競走第一号といえる、内国産新呼馬による「馬政局御賞典」が行われた距離2,000m。ナンチャウ牝七(高松)が勝ち、一着賞金二五〇円を獲得した。

馬券投票も大人気

馬券は例によって禁止されている。
だが、投票用紙が入場券についており、2円の一等入場券には2枚、1円の二等入場券には1枚がついていて、これで投票を行えるようになっている。これを発馬40分前までに投票所に持って行き、予想の勝馬名を記入して投票する。

これが当選すると福島市内の有名商店で使用できる商品券を受け取ることができる。馬券ではないので、当選倍率のようなものはなかったようで当選者には投票券1枚につき90銭以上の商品券が渡されていた。
(主だった店としては当時の福島市内有名店である角長貴金属店、中村呉服店、草野漆器店、清野漆器店、清見株式店、三津間株式店など)

なお、勝馬投票券は入場券に付属しているものなので、何回も投票を行いたい場合は、その都度外に出ては入場券を買い直して入るということになり、実際にそうした者もいたようである。

逆に、中には勝馬投票券の使い方がわからずに投票を棄権した者もいたという。なにせ始めてのことなのでそれもしょうがない。

また、当選者によっては商品券が不要であるため現金化を希望する者もいた。そこで福島競馬倶楽部では初日から現金希望者には1割引で商品券を現金引き換えすることも行っていた。現在のパチンコの三店方式に似たようなことを行っていたようである。
それ故に後々問題が発生するのだが…それはまた別の機会があれば。

第一回福島競馬の希望に満ちた成功

大正7年6月26日からの3日間で行われた初の福島競馬は、
「人の出が5,400人あまり」らしいが、どうもしっかりとした算出方法がないようで、かなり大まかな数字であり、発表によって数字が変わるためあまり信用はできない。ちなみに現時点での福島競馬場最高入場者数は1993年7月の4万7391人のようである。福島市の人口も現在の半分以下の12万人ほど、人の移動も難儀であった時勢や設備を考えるとかなりの人出であったのは間違いないようである。

1円や2円の入場料がとられるスタンド以外にも、木を組んで縄で縛った簡易的であるが、観覧料10銭前後という私設観覧場も馬場の周辺に作られていた。このスタンドは福島競馬倶楽部としてのものではないため、あくまで一般観覧者が物珍しさに見ていくためのスタンドかと思われる。この私設観覧席を用意した業者はかなり収入があったらしく、競馬が終わった後に全員が現金を出し合い、500円ほどをまとめて福島競馬倶楽部に寄付をした。この資金で場内にサクラやカエデなどを植樹している。
また、この私設観覧席では2日目の第三レースで観客が総立ちになったためにスタンドが崩れ落ちて負傷者を出す騒ぎも起きていた。

こうして3日間にわたる第一回福島競馬は騒ぎや事故を起こしながらも収入も5,000円に達し、大成功といえる結果を収めた。
馬場の質も全国の競馬倶楽部と比較しても遜色なく、土質が非常に良く全国一だともてはやす言葉も中にはあった。第二回福島競馬が翌秋9月下旬から10月上旬に行われる予定であり、そのころにはまた全国からの出馬が見込むことができる。第一回では馬場の良否の判断がつかずに出場を見合わせていた名馬の所有者達が、この結果を受けて福島競馬倶楽部へ加入、さらなる活況になる予感がすでに感じられた。そのため、第二回に向けてスタンドを拡張し、厩舎も増築も検討され始まった。

肥田金一郎が言うには1頭の馬を競馬に出場させるためだけでも馬丁、騎手、馬の運搬と滞在費、餌等々で一回1,000円の経費がかかるとのこと。
しかし、そんな中で馬匹は競争により改良され、それが国家の宝となる。華やかな舞台での活躍を願って有志がおのおのに馬を飼い、競いながらそのための準備を進めていく。その先にある舞台となる次の競馬こそ、まさに見る価値が充分な大舞台となる。

そのような希望に満ちた第一回競馬となったのでした。

最期に

福島競馬の歴史は関わる人たちの非常に熱い思いが文献の中からも感じられるものでした。現在のJRA福島競馬場は外観内観もキレイで立派な姿で福島市民の街の一部として存在しております。

この後も馬券復活や事件事故がありながらも福島の発展に大きな影響を与えたのは間違いありません。移譲のためにその力をつくし、後世に恩恵をもたらした人たちの活動には感動すら覚えます。コロナ以前の福島競馬開催日といえば国道4号線が混むのが当たり前の状況でしたからその影響たるや。

「勧められる観光スポットがあまりない」と自虐するのが私の周囲の福島市民像であります。が、万人受けはせずとも、競馬が好きな人は「福島市といえば競馬」という目で見て、「行ってみたい」と思わせることができる施設が存在していればそれで充分なのではないかと思います。例えば、神社仏閣に興味が無い人が有名な神社やお寺に行っても「立派だな」という気持ちで終わるでしょう。しかし、好きな人にとってはその雰囲気を味わったり、パワースポットとして堪能したり、歴史的な背景を含めて知って訪問することで感慨深い気持ちが生まれたりするのではないかと思います。

数年前、東北大震災後の原発事故の影響で福島市内にも大量の除染業者が入ってきましたが、ある日、コンビニの駐車場で携帯で話していた作業員の方の言葉がふと耳に入りました。

「今どこにいると思う?福島競馬場のそばやで。」

競馬場の記事を書いておきながら、私は競馬に興味が無く、生まれた時から地元に当然のようにある施設というようにしか見ていませんでした。

しかし、見る人によってはこれが「あの」福島競馬場となるわけです。好きな人には「あの」福島市となる。そう思うと福島市民として少し誇らしい気持ちになったりするのでした。

福島競馬場の歴史を先へ進めると終わりが見えなくなってしまうので今回はここで「福島市に福島競馬場がある理由」は一区切りといたします。

当然のように見ている物や風景の中にもそれを作り上げた人たちの意志が存在しております。当たり前のように見ていたものもそれがある理由を調べると面白い歴史が隠れているかも知れません。

参考文献

「人馬一体 福島競馬六十年」
日本中央競馬会福島競馬場/編 
日本中央競馬会福島競馬場 
1978年

「福島競馬の足跡」
志田 三木/編
日本中央競馬会
1997年

「大島要三翁の足跡」
高野孤鹿/編 
故大島要三翁遺徳顕彰会
1966年

「福島の進路 No.442,2019.6」
とうほう地域総合研究所/編
とうほう地域総合研究所
2019年

「ふるさと100年の礎を築いた人々」
福島市/編
福島市
2008年

「らら・カフェ 2013年 夏号」
「らら・カフェ」出版部/編
第一印刷
2013年

福島市にJRA福島競馬場がある理由 記事一覧

その1 「伊藤弥氏」

その2 「伊藤弥氏と大島要三氏」

その3 「市長と市議会の説得」

その4 「藤枝との交渉、そして政府へ」

その5 「土地買収と建設」

その6 「建設完了・初開幕へ」

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