市長と共に動き出す
それから4日後に市長室に呼ばれる千葉。
そこには大島要三をはじめに、内池三十郎(第百七銀行)、小杉善助(元市議会議長・弁護士)、西谷小兵衞(市議・内池商店)、吉野周太郎(福島倉庫)、鈴木周三郎(福島商業銀行)といった福島市の大所がすでに並んでいた。
そんな面々の前で、千葉はしゃべることが不得手ながらもその語り口には、逆にじっくりとした説得力がでていた。
競馬界はどん底にありながらも明治天皇の意向により始まった馬品改良18年計画はいまも生きている。
馬券禁止令で死に体になったかのようではあるが、いまが底と考え、これからは健全な方へ進む良い機会である。
政府が公認競馬倶楽部を野垂れ死にさせて醜態を取るとしたら未来への大きな負債となってしまう。最悪そうなったとしても政府への貸しを作る事ができる。
大島はきっぱりと、
「面白い。どうだろう皆さん。やってみようではないですか。」
それに引き込まれるように周りも「賛成」「よかろう」の声があがった。
大島が中心となって動くことも決まったが、余計な雑音に煩わされる事のないように、極秘のうちに進め、ある程度いけそうな算段がついた段階で市会などで一気呵成に持って行くこともその場で申し合わせた。
藤枝競馬倶楽部への意志確認
福島では移譲についての話しが進んだが、問題は移譲元の藤枝競馬倶楽部である。まだ、周辺で話しを進めているが藤枝の意志はまだ確認が取れていない。
その藤枝の会頭理事には譲渡の意志があるかどうか、最初の話し合いとして肥田と服部が臨んだ。馬についての交渉なら伊藤弥と言いたいところだが、表立って動くわけにはいかないので肥田と服部、千葉が大島の専門筋として重要な役割に着くのであった。
藤枝競馬倶楽部との話し合いで、藤枝自身も競馬をもてあましているようで、権利譲渡も法的に問題がなければといったように乗り気になっていることが確認できた。
内々に進めている極秘の話しではあったが、日が進むにつれてどこからともなく噂として流れているようであった。
ただでさえ世間一般的には博打色がくっついた悪い印象があり、風紀上の乱れや道徳観などからすれば当時の情勢からすれば反対側の意見は至極真っ当に見えてしまう。実際に市民の一部にはかなり強硬に反対を表明したものおり、それを受けて市議からも反対論が出ていた。
市議会での問答 交渉開始への前進
それから実際に市議会では数日、この話題に集中することとなった。
「博打志向の人間に上等なものはおらず、それが一般に与える悪印象悪影響を警戒しなければならない。年数日の開催では大した期待はできまい。市が力を入れるのであれば、経営が悪化している競馬より、地方進出を意図している会社工場でも誘致することの方が効果があるだろう。」
「やる気がある者達だけでやって、市が関わることはないだろう。」
至極真っ当な意見に見える。
「税金を費やしてなどは毛頭考えてはいません。福島に公認の立派な競馬場をつくる。地元総ぐるみで馬を育てる。そこに主眼があるのです。利益という点ではすぐに目に見えるような効果は未知数です。ですが、将来の展望に立つと、必ず競馬隆盛の再興はある。公認競馬場が市民の大きな財産になるときがきっとくる。そう確信しているから市長として問題提起をしているのです。」
大島、小杉、西谷といった有力どころが賛成側に立っているので、採決となればそれで決まる状況ではあった。しかし、事が大きいだけに強行は避け、円満にまとめる努力が続けられていた。
審議は二日目三日目と続きその間に競馬の専門的意見として福島県農業技師三浦清吉を呼び話しを聴いている。
この人物は農商務省技師として種馬購買にヨーロッパへ渡り、フランス共和国政府から勲章が送られるほどの敏腕の馬政官であった。その後退官し、福島県種畜場長となっていたが欧米の競馬事情には精通していた。
三浦は政府の役人としての面子を保つためか、農商務省側としての競馬による馬匹改良の善し悪しは言及を避けた。しかし、技師の立場としては別で、本場外国の競馬と上流社会の結びつき、馬の水準を説明しながら競馬場設置については好意的な意見を示した。
そういった円満にまとめるための努力が実り、諸手で賛成とまではいかないがこれ以上の反対はしないという一部慎重派の了解を引き出すことができた。
誘致のための委員会が設けられることとなり、権利譲渡交渉の代表委員に大島、西山、小杉、市側の助役として渡辺新が選ばれた。
しかし誘致に当たっての旅費、宿泊費など一切の経費が予算化されたわけではなかったのである。市としてのバックアップはお気持ちだけといった様相である。
肥田からは運動行動費2千円が出されていたが、大島と西谷で別に2千円を都合し、藤枝へ本格的な買収交渉へと進むこととなる。
交渉へ代表が旅立っていったのは大正6(1917)年の春も浅い頃。
これにて福島市への公認競馬場誘致運動が船出を迎えた。
藤枝との交渉開始
事前に肥田から買収打診を受けていたため藤枝競馬倶楽部会頭である岡崎平四郎は、待っていたとばかりに交渉に応じてきた。
問題はその金額である。
福島側としては入念に検討を重ねて1万6千円あたりが妥当であると算出していた。しかし藤枝側が提示した金額は遙かに上回る5万円だった。
実はこの5万円という金額、最初の情報段階ですでに出ていた数字だったのだが到底飲むことのできない要求額であった。
岡崎会頭もなかなかで、
「この競馬場は23人で50万円の資本にて始まった。できたとたんに馬券は売られんひどい目にあった。福島は馬産地だから馬も揃おうが、こちらは他から来なけりゃ競馬にならん。ファンは集まるが、馬の引きつけの面倒もあるし、福島でやりたいというなら移しても良かろうと株式連中の了解は一応とりつけてある。それにはやはりある程度金を渡さにゃ。これで偉い損をしているんだからね。」
「設備投資でかかっているのは土地別で8千200円あまりでしょう。土地は流用可能なのだから権利譲渡だけを考えてくれなくては。土地も設備も持って行けるなら別だがこれは貴方たちに残る物なのだから5万円は法外だ。」
「だが、これだけは出してもらわんとなんとも致し方ない。」
「それではしようがない。この話はダメになりますな。」
「欲しいと言ったのはそちらで、こちらが売り込んだわけじゃなし。ダメで元々の事です。」
お互いに足元を見た駆け引きなのだが、互いに自分が有利と思っている。
結局4日目には
「それじゃ売らん」「では買わない」
となり談合決裂となってしまった。
…その4へ続く…
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