交渉決裂…? 大島の勘
「どうする、帰るかね。」と西谷と小杉。
それに対し大島は
「いや、岡崎さんの表情を見ているだろう?競馬をもてあましてどうにもならんとこまできているんだ。肥田君の資料を見たって馬政局が困ったもんだともてあましている。」
「だが、実際話しはこじれたんだし、それでまたむし返せばそれこそ足もとを見られて結局は同じだろう。」
「こちらからはもう言わんさ。ただ、折角初めてのところに来たんだから骨休めに志摩温泉にでも3・4日逗留して帰ることにする。それとなく岡崎さんの耳に入るようにしてきた。きっと話しはぶり返してくると思っている。そうでなくてもご苦労ついでだ、もうちょっと付き合ってくれや。」
事業家としても長年蓄積してきた大島の勘で、岡崎がこのまま「勝手にしろ」は絶対に無いと読んでいた。
しかし、2・3日経つが、何の音沙汰もなかった。
大島も「これは思惑違いか」という気分になり「いや、一週間は見るか」と気を取り直していた。
だが、大島の読みは当たっていたのである。
岡崎から再交渉したいと言ってきたのは5日後であった。
藤枝との再交渉
岡崎は改めて、「参ったな」というような口調で切り出した。
「仕方がない。貴方たちも、おそらく帰るに帰れないでいたんだろうから、その誠意を汲んで話しに応じよう。」
こうして藤枝競馬倶楽部としては移転について交渉成立となった。
具体的な譲渡条件は大正6年6月30日、私署証書で契約した内容の書類が交わされ、同年9月19日に東京地方裁判所所属の野沢公証人で証書正本として作られた。
『藤枝は福島移転を申請し、代わりに大島要三、鈴木周三郎、吉野周太郎、西谷小兵衛、小杉善助、湊芳蔵、内池三十郎の福島側七人から個人たる岡崎平四郎氏に補償する』と契約した内容の書類が交わされた。
第一条
社団法人藤枝競馬倶楽部の神聖たる福島県福島市に移転の件、果たして陸軍大臣の許可ありたりときは岡崎平四郎会頭の職を辞すべく、大島要三以下内池三十郎等七人は自己等のうちまたはその指定する者右会頭を襲職すべきことを相約す。ただし岡崎平四郎は該社団法人移転後といえどもすなわち同倶楽部の会員足ることを得。
第二条
大島要三以下七人は当該官署より前記移転の許可ありたるときは、金一万六千五百円を岡崎平四郎に給与しもって跡始末の実費に充てしむ。ただし当事者双方とも後日多少を論ずることを得ず。
第三条
前条の金一万六千五百円の中金二千円だけは本契約調印の事前もって交付しおくものとす。もし後日、移転不認可の時は岡崎平四郎はこれを大島要三等に返還すべし。
第四条
前期の如く当該官署より移転の許可ありたる上なおまた大正九年十二月末日迄の中に限り馬券発行を許容する法令施行せられることあるに至りたるときは、大島要三等七人は競馬開催二回目を始期とし爾後五回の間に限り毎回馬券発行高の百分の二に相当する金額を岡崎平四郎に給付することを約諾す。
藤枝との約束はまとまったが、今度は政府が藤枝競馬場を福島市に移すことを良しとするか。事前に政府筋の好感触を確認はしていたが、あくまで裏での確認でありが、実際に正式な許可を得られるかというとまだわからないのであった。
何分、馬券の売れなくなった競馬倶楽部は総額40万円前後の補助金を支給されながら競馬場を開催、維持している状態である。
政府としては自ら潰さずとも、立ち行かなくて権利放棄するというのであれば、手を汚さずに一つの競馬倶楽部が減らせてその分の補助金負担も減らせるということにもなる。(ちなみに大正6(1917)年に藤枝へは1万5690円が支給されている)
そのため、移転の申し出があっても、握りつぶされ黙殺される可能性は多分に考えられるのであった。
ともかく、馬政長官宛ての競馬場移転申請を提出。
申請は証書作成以前の大正6年5月3日付けとなっている。
本倶楽部は明治四十一年四月十八日設立許可を受け御庁の御命令を尊奉し御監督の下に本会の事業を経理し春秋二回競馬会当挙行致来候処既往の成績に顧み思うに本県に於いては気候及び地方的関係上なお未だ直接その効果を改むるもと尠なく産馬契励のため潜かにその主旨に副わざるものあると遺憾と致候ここにおいて将来本事業の発達を期するため現在の本県下志太郡相川村本倶楽部常設競馬場をわが国馬産地の冠たる福島県下に移転し以て完全に本会の目的を徹底せむことに致度何卒本願御採用速かに移転の儀御聴許被成下度候追て御下命により移転地名及び設計図面等提出可致此段奉願候也
大正六年五月三日
馬政官 浅川敏靖殿
静岡県志太郡藤枝町
社団法人藤枝競馬倶楽部
理事 岡崎平四郎
政府への根回しと人海戦術
大島たちとしても政府側が移転の肝であることなど十分承知であった。
大島は、衆議院議長を務めた実力や第二次大隈内閣で農商務大臣という積年にわたる中央政界で地力を持つ河野広中へ。
西谷は伊藤の口添えを得て、飯坂出身、政友会のニューライト的存在で後に衆議院議長ともなる堀切善兵衛へ。
肥田は、学習院同窓の旧福島藩主板倉正憲子爵へ。
それぞれが有力者を通じて執拗に認可促進の依頼を繰り返していた。
河野、堀切、東京競馬倶楽部常務理事安田伊左衛門などを東京の富士見軒に招待している。(富士見軒は麹町区にあった西洋料理店らしい)
代議士先生を伴って当該官庁への圧力陳情、超党派が入れ替わり立ち替わりでの「お願い」である。
さらには板倉を介した青木子爵、前田、榎木、酒井、牧野、松平伯爵らの貴族院・華族筋からの「お願い」も行われており、この問題について強面だっていた陸軍省・馬政局もさすがに折れざるを得なかった。
精力的な動きにより、
岡崎が移転申請を提出してから5ヶ月目にしてようやく
「よろしかろう」という内諾の朗報が福島へもたらされたのだ。
もう一度改めて認可しやすいように口実を設けた移転申請を具体的な競馬場新設の設計図も付けて出せということだった。
福島から藤枝へ設計書が届くと、すぐ岡崎は再度の移転申請を馬政長官宛てへ送った。
新たな競馬移転申請は大正6年12月10日付けで提出されている。
当倶楽部本県志太郡相川村常設競馬場は創立明治四十二年にしてすでに八ヵ年の星霜を経過し而も創設当時倶楽部経済微力の結果ほとんど一時的甚だ粗造の建築をなしたるため馬見所及び厩舎とも腐朽頹敗に傾き且つその他の設備また不備欠点多く公認競馬場として存立するにいささか遜色の嫌いありと存候刻下馬匹の改良は益々緊急にして産馬界の前途愈々重きを加えるの時に当り競馬会の振興を図る極めて適切なり然るに競馬施行に必要なるに完全なる設備を欠くに於てはとうていその負う所の事業の完成を期し難く存候につき今回臨時総会決議の上ここに現在の常設競馬場を福島県福島市に移転し別記の設計によりさらに改築をなさんと致候
以上の次第につき移転の義何卒御認可被成下度此段申請候也
大正六年十二月十日
馬政長官
浅川敏靖殿
静岡県志太郡藤枝町
社団法人藤枝競馬倶楽部
理事 岡崎平四郎
設計書
一,本馬場 一〇,九〇八坪 工費 四,五四五円
一,練習馬場 四,三〇五坪 一,七九五円
一,構内地均し 四,四〇〇坪 八四五円
一,排水工事 二,〇〇〇間 三,八〇〇円
一,馬場路地地堅 一,五二一円三〇銭
一,一号馬見所 一棟付属建物共 一六,〇〇〇円
一,二号馬見所 一棟付属建物共 一六,〇〇〇円
一,馬見所階段工事 一,三五〇円
一,厩舎七棟 一二,五〇〇円
一,審判台 二〇〇円
一,蹄鉄工場 一,二〇〇円
一,炊事場一棟 八〇〇円
一,便所一棟 一,四〇〇円
一,事務室斤量場一棟 二,一二五円
一,木柵 二,七三六間五 二,二二九円八〇銭
小計 六六,四一二円一〇銭
一,土地買収費 三五,三〇三円四〇銭
一,予備費 三,二八四円五〇銭
小計 三八,五八七円九〇銭
合計 一〇五,〇〇〇円
右之通に候也
大正六年一二月八日
静岡県志太郡藤岡町
社団法人藤枝競馬倶楽部
理事 岡崎平四郎
当倶楽部定款中第四条及び第五条を左の通り改正致度候に付御認可被成下度別紙会員臨時総会の会議録写相添此段奉願候也
定款第四条 本倶楽部は社団法人福島競馬倶楽部と称す
定款第五条 本倶楽部の事務所は福島県福島市大字福島字杉妻町拾壱番地に置く
以上
静岡県志太郡藤枝町鬼岩寺百八十八番地
社団法人藤枝競馬倶楽部
理事 岡崎平四郎
大正六年十二月六日
陸軍大臣
大島健一 殿
この申請によって、
次のような認可書が12月も押し迫った27日付けで発行された。
陸軍省受領
参第八四一号
藤枝競馬倶楽部
理事 岡崎平四郎
大正六年五月三日付申請其倶楽部競馬場移転並同年一二月六日付申請定款中改正の件認可す
大正六年一二月二七日
陸軍大臣
大島健一
大島要三の、そして伊藤弥の悲願がついに成ったのである。
しかし、朗報を受けて年が明けた翌年の大正7年2月11日。
伊藤弥氏は福島競馬場の開催を見ることなく急逝している。
若干52歳であった。
福島競馬場が移転成就への悲願達成を知ることができたのがせめてもの救いなのだが、一番その姿形を見たかったであろう伊藤氏がその日を迎えることなく亡くなられていることが残念でならない。
…その5へ続く…
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